プロセスワーク関連のおぼえがき

2007年6月にプロセスワークのMACFOC(葛藤解決・組織改革修士課程)の一期生としてめでたく卒業しました。これまでの学びを日本語のおぼえがきという形で書くとともに、ほぼ二年を経た今、だんだん地金が出てきてプロセスワークから迷い出している部分も多いです。

非言語の言語化 10/13/09-b

言葉をしゃべる者』で、言葉をしゃべる者になることが自分の使命なのかなと考えてみた。

これはたとえばセラピストとかファシリテータとかいう仕事と比べるとずっと私の実人生につながっている。

過去二十数年翻訳と通訳で食べてきたのだから。

ところが、MACFOCのトレーニング中に私は何度か何か言おうとして、それがファシリテータに通じないで何度も聞き返されて困惑したことがある。

こういうことについては、『Weirdな涙』で「十分な力のない少数派は、主流派から見た場合に混乱とか暴力とか狂気とか病気としてしか自己を表現できない」とフレーミングしてみた。

謙虚さについての渦巻状論理』で触れたが、私は何が言いたいのかはっきり聞き手にわからない言い方をすることがある。

意識的にやっているわけではないが、なんで難解な表現が出てくるかというと、言葉で表現しにくいことをなんとか表現しようともがくからだろう。

言語体系というのは、この世の全てのことを表現できると暗に主張しているものだが、外国語を学んだ者なら、どうしても翻訳できない言葉はいくらでもあることにすぐ気がつく。

だからある感情経験を表現しようとしても言葉が存在しないということはいくらでもありうる。

トルストイは、これまで表現されたことのない感情に言語表現を与えるために一つの小説を書いたという。

そういう言葉の構築が私の使命だと考えると、今までの人生の軌跡ともつじつまがあっている。

幼いころに言葉のない世界で虫や蛙と遊び、中学高校でやはり言葉とあまり関係のない星に親しみ、大学では陸上で肉体の練磨を経験し、大学院では生物物理で自然科学の実践と言葉を学び、さらに、ラジニーシの精神世界、禅の世界、そしてプロセスワークの世界を学んできた。

個人生活ではアメリカに住み、アメリカ人のつれと生活し、子供を育てているから、アメリカの英語の世界も知っている。

(こうして見ると言葉への興味は大学院に入ったころからだとわかる。それまでは小説なんてSFしか読めなかった、そういえば。)

つまり、言葉のない世界で遊泳する経験が十分にあり、そのベースの上に言葉として自然科学の言葉と宗教の言葉と心理学の言葉を学んできている。

深層民主主義というのは全ての声を聞くということなのだが、聞くためには声がまず発せられなければならない。

プロセスワークのいいところはシグナルへの感受性を訓練するところだが、それにしたってシグナルの解釈はやはりファシリテータの知っている言葉の範囲でしかできない。

あ、そうじゃなくてPWでは参加者がシグナルの意味を見出すのをファシリテータがサポートするんだ。

この場合でもシグナルの意味が参加者自身の言語表現可能性の範囲外だったら、その意味はグループにとっていつまでも二次プロセスに留まる。

まあそれでもグループに参加した人は何かを受け止めるだろうが。

少数派の声が本当に聞かれるためには、まず聞こえるような声を作っていかなければならない。

その言語化の作業が私の仕事、ととりあえず言っておく。

とりあえず、というのは、もうすでにそれに対する反論が聞こえているからだが、ここではまだ書かない。このエントリーのメッセージをくもらせたくないので。


10/24(土)と10/25(日)はDAYAさんとのコラボ!
 24日は対談、25日はグループプロセスやって後でビデオ研究です。来ていただけるとうれしいです。

踊りのプロセス 10/13/09

一昨日、ディプロマのコホート2のパーティに行って、よく踊った。

踊りのステップは知らないし、そもそも足が不器用なのでやみくもに身体を動かす。

最初はどんな風に動けば気持ちいいかわからない。

カーペットに寝転がったり、座ったり、四つんばいになったり、立ち上がって走り回ったり身体を揺らしたり。

二人で合わせて踊っている人々を見ていいなと思うが、こっちは自分の動きすらぴんとこないので人に合わせるどころではない。

ときに近づいて何か合わせようとしても自然に身体が離れていく。

二時間くらい踊ったり休んだりするうちに、なんとなく音楽と身体の動きに調和がでてきた。

それにしてもコホート2の人たちはよく踊る。

そう言ったら「今回のレジデンシーはムーヴメントがテーマだったのでかなり動きのワークをした」由。

私もMACFOCの始めのころ、ムーヴメントのワークをしたかったが、ファシリテーションがメインなんだからとあきらめた記憶がある。いいなあ。

みごとに長時間踊っていた人と帰り際にちょっとハグして話した。

その人が去るときにふっと痛みを感じた。

歌にたくす思い』で気づいた別離の悲しみを抑圧する自分のパターンのことを思い出した。

別れの痛みを感じることはいいことだ、という思いと、これに刺激されて過去の別れのトラウマが浮上してきたら、という恐怖との間を揺れ動く。

踊ることで感情へのアクセスの通りが少し良くなったかな。

感情へのアクセスをブロックしているロールの意図を好意的に理解することも大事だろうな。


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コホート制による弱い少数派のサポート 10/12/09

今日はPWIのトレーニングミーティングというものに初参加。

正規学生のトレーニングに関することを話しあうというミーティングだと理解していたので今までは参加しなかったのだが、PWを学ぶ者なら誰でも出られるという通知を見て行ってみた。

ディプロメートの参加としては、MACFOCの四人の創始者のうちの三人が参加するという豪華版であった。

興味深かったのは、コホート性以来PWのコミュニティが一つのコミュニティからコホートごとの数個のコミュニティに分かれて、その間のつながりが薄くなっているという、コホート外の人からの指摘。

コホートの学生からはコホートによる緊密なサポートの良さが指摘された。

また、他のコホートやコホート外の人たちとの交流を強く求める声と、自分のレジデンシーをこなすだけで精一杯で、外との交流まで手が回らないという声もあった。

やや話が変わって、ディプロマコホート2の授業の中でスーパービジョンをするときに、積極的に「わたしがやりたい!」と言えない人のケアもしてほしいという声。

シャイな人のケアということなので私も聞き耳を立てた。

PWI全体として、人種差別にもっと本気で取り組んで欲しいという声がここでやや唐突に上がった。

すると、シャイな人のケアということと人種差別のケアというのはつながっているのではないかという指摘が出た。

シャイを文化的な属性とみなせばたしかにそうも言えると思った。

つまり今のPWIの教え方では外向的な文化に属する学生を自動的に優遇することになるということだろう。

ここで一つなるほどっと思ったことがあった。

ディプロマコホート2はシャイな人が多いという。

人種差別についての気づきを求めたのは人種的少数派を含むMACFOCのコホート3の人だ。

つまり、両方とも自分のコホートのメンバーを代弁してPWIに物申している。

さきほどコホート制による緊密なサポートの良さ、と書いたが、これがその好例だろう。

十数人が何度も集中的に一緒に切磋琢磨することで、コホートの中にいる少数派への気づきがいやでも高まる。

今までのPWコミュニティのゆるい関係性ではこぼれがちだったかもしれない少数派への目配りがコホート制になって可能になってきたのかも、と思うとうれしい気がする。

私がこれまで何度か弱い少数派のサポートがプロセスワークの課題だと書いてきたこととこれはつながっているのだから(『悪者ロールのサポート』、『弱い少数派のサポート』)。

セラピストの友達 10/10/09

アンチ・サイコセラピー』で紹介したJames Hillmanの本の共著者であるMichael Venturaという人が、自分の周りは妻も含めてセラピストばかりだと言っている。彼自身は作家である。

これを読んだとき、自分もそうなんだよな、と親近感を憶えた。

なんとなく気安く話ができる人というのは、特に女性の場合、セラピストとかカウンセラー的な人が多い。

ところが、セラピーの経験となると『セラピー恐怖への対処』に見るようにはなはだ不満足である。

この矛盾はいったいなんなんだ?

この矛盾が私の自己理解に大事じゃないかという感じがしている。

とりあえず考えているのはこういうことだ。

どうしても「ちゃんとした」クライエントになれない人間は、セラピストを職業とする人にとってはセラピストロールにはまりこまなくて済む気楽な相手になれるのかなということ。

こう書いてみるとちょっと自己批判を感じる。

友達としてセラピーの恩恵も受けてたじゃないか、という批判。

そう、友達的な平行関係だと私もけっこうセラピー的助言の恩恵を受けることがある。

でもセラピスト対クライエントという関係だとその通路が閉ざされる。

練習セッションのクライエントとしてけっこういい経験をするのは、セラピストがまだ学生でわりと同等に話せるからかなと思う。

プロセスワークのシニアのセラピストでも、平行な関係としてしゃべれればいいなと思っていたが、そういえば最近偶然話した何人かのディプロメートとの会話の感じは少しその方向に向かっているようだ。

これはうれしい変化だ。

ふう、内部批判者の声がうるさくて書きにくい。

でも書いておきたい。これ以上は書けないが。

あれ、でも読み直してみるとそんなにエッジーなことを書いてるわけじゃない。

ああそうか。俺はディプロメートと対等だぞって言ってるロールがいるんだ。

それに対して「お前もディプロマのトレーニングのきびしさを横で見ていて知ってるだろう。そういうトレーニングをやってないくせにでかいつらするんじゃないよ。」という批判ロールが立ってくる。

ここまで書かなきゃ読んでる人にはわからないよな。

対等ロールがそれにどう反論するか。

「俺みたいな人間にはいくらディプロメートだってたいして役に立ってくれない。だから自分で工夫しなくちゃ行けない。そういう意味で対等なんだよ。こういう人間にプロセスワークを役立てるためには俺の協力が必要なんだ。」

批判ロールはどう応えるか。

「お前一人に役立つためにプロセスワークがあるんじゃないよ。一人で工夫して一人で喜んでるだけじゃあ人の役に立たないよ。」

うむむ

「いや、今のセラピーのパラダイムに恩恵を受けていない人はけっこう多いと思う。セラピーが一般社会に浸透している今、そのことを認識することが大事。でないとセラピーがすごい抑圧の道具になってしまう。」

まあこれくらい書いとけば後で読んで自分で参考にできるかな。


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そうか、こういう慣れないことをしようとしている緊張から、人前に出せるような形で自分を規定しようとする動機が出てきてる。

そのこととこのエントリーの好戦的な雰囲気とつながっている気がする。

宴の後 10/9/09

昨日は友達への気持ちが素直に出てすごくうれしかった。

そうすると、どんどん人とコミュニケートしたくなる。

そして地面とのコネクションを忘れる。

それが昨日の『気が散ってる!』だと思う。

(『やるべきことがたまるばかり』、『集中できず』、『動けないあせり』も参考になりそう。)

地面とのコネクションという重しがないからちょっとした外からの風に吹きまわされる。

地面からエネルギーをもらうことができないからくたびれもする。

しかし、人とのコネクションに歓喜しているときに、地面とのコネクションの必要性を思い出すのは高等技術だ。

そういうときは物との関係性なんてことは忘れたい。

人とのコネクションの邪魔になるという感じがする。

ふむむ、この辺に鍵がありそうだ。

そういや前から人との関係性と物との関係性の間のハーモニーをいろいろ画策していたと思う。

物との関係性と茶碗』では、茶道などの所作事というのが人との関係性の中に物との関係性のモードを取り入れる仕掛けになっているのではないかと書いている。

何か一定の規則に従ったことを人と一緒にやること。となると接心くらいが私にとっては一番現実的な機会か。

禅センターの日曜の朝課を手伝ってもいい。


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気が散ってる! 10/6/09

猛烈に気が散ってる。

左側のコンピュータには二つの書きかけのメール、さらに二つのオンラインのディスカッショングループのサイトも開いてこれも書きかけ、畑の土を買う店のホームページ、PW友達のプロジェクトのホームページ、さらにyoutube、右側のコンピュータはスカイプ、このブログ、三年前のグループプロセスのビデオ、囲碁ソフトが開いている。

これらの間をせわしなく行き来しながら、キッチンに行って何か食べたり飲んだりしながら、キーボードが汚いからきれいにしようと考えながら・・・

このくらい落ち着きがないともうなんにもできないよ。

今日は練習セッションのクライエントになって、普段は出てこないような人恋しい気持ちが噴出して新鮮な驚きに満たされた。

その余韻が残っているのか、いつものようにこつこつとメールを書いたりするのがむずかしい。

いや、いつもとは違うことを書きそうで、つい指が止まってしまう、そういう感じかな。

つれが今日コロラドに里帰りしたのも関係しているか。

数日間いつもと違う時空間になる。

息子も日曜に野外合宿に行くので、三日くらいホームアローンになる。

あ、そうか、かなりすごい夢も見たんだった。

禅のK先生に、座禅中に中国語の禅の話を朗読する役をまかされて、読めないところがあるけどあせらずにこなすという夢が一つ。

もう一つは日本の昔の知り合いが風景画を描いているのを見る夢だが、下の方が東京のビル街で上は青空、右上にはまつぼっくりのような形の積乱雲。

積乱雲の左側が陰になって暗い灰色になっているところや、雲のひだひだがはっきりみえる総天然色の夢だった。

どうもひっちゃかめっちゃかのエントリーになったけど、「気が散ってる」というタイトルにはふさわしいか。


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見られることへの耐性 10/6/09

アートグループのDさんは「自分は人に見せるためにアートをしているんじゃない」という気持ちと「作品が誰にも見られずに屋根裏で朽ちること」への複雑な気持ちをよく口にする。

こういう葛藤はよくわかる気がする。

性格テストの結果』で書いたように、マイヤー・ブリッグズの性格テストで私とDさんは同じINFP(内向、直観、感情、知覚)型である。ちなみにこの反対はESTJ(外向、感覚、思考、判断)。

内向的だと見られること自体あまりうれしくないということはあるし、直観的で感覚の方が弱いからどういうふうに見えているかということがよくわからず不安が増す。

MACFOCでファシリテーションを学んだ理由の一つはこの「見られること」への不安から自由になりたいということだったかもしれない。

私はMACFOCの卒業研究の発表で自分が二十年以上前に描いた絵をパワーポイントのスライドにちりばめてみた。

内容と直接関係ないのだけれど、やや恣意的に関係付けて見せた。

これはけっこう気持ちよかった。

ほめてくれる人はもちろんいた。まあこういう場合ほめないと間が持たないということもあるからあまり本気に取らないことにしたが。

二年経って、先日PWの友人が「あれはよかった」と言ってくれて、これはほんとに気に入ってくれたんだなとうれしかった。

絵を見せるというのは自分が見られるのに比べるとずっと楽だ。

絵にはかなり自分自身がこもっているんだけど、それはあんまり気にならない。

このブログの場合は微妙だ。

読んでくれる人がいるということははげみになるのだけれど、これが良かったとか具体的に言われたらしんどいだろうと思う。

なんかそういうことを書かなきゃいけないのかなという気になるだろう。

うん? そういえばこれはそれほど強く感じないかな、今は。

これまで実に748回も書いてきたので、かなり慣性がついてきて、多少ほめてもらったくらいでは書き方は変わらないかもしれない。

そうか、見られるということへの耐性が少しずつできてきているんだな。

今日は三年前の練習グループプロセスのビデオを少し見ている。

せっかく撮ったのに、見るとすぐ席を立ちたくなるので今までろくに見ていなかったのだ。

やはり以前に比べると見られているというパニックは軽減しているようだ。

参考: 『セラピー恐怖への対処

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両極への振れとバランス 10/6/09

最近セラピーセッションに関するネガティブな思いを『セラピーセッション対策』で書いた。

昨日は『セラピー恐怖への対処』で、それを逆の側から見たようなことを書いてみた。

つまり一方の極だけでなく、そこで他者として見られている反対の極にも寄り添ってみるという、プロセスワークの基本方針に従ったわけだ。

ただし、これは一つの方向に向かうことにエッジがあって、逆の極に行きたがっているのかもしれないという可能性もある。

たとえば、あまりセラピーの悪口を言うのがきまりわるくなってきて、バランスを保とうと逆の側に自分を押すと、プロセスが動かなくなることがある。

もうちょっと悪口をいいつのった方がよかったりする。

これは振り子の揺れにたとえれば、一方に大きく振った方が反対側にも大きく振れるという感じ。

振れすぎを心配して反対方向に動こうとすると振幅が小さくなってしまう。

この振幅がプロセスを進めるエネルギーみたいなものでもあるので、あまり小さくまとめるとプロセス自体がへたる。

無理に大きく振ればこれまた自他共に心身ともに傷ついたりすることもあるから、さじ加減が大事なところだろう。

ところで、プロセスそのものはこの振れの方向とはまた別の方向に動くものだと思う。

時計の振り子が左右に振れる動きを利用して針が回っていくように。

あるいは、スケーターが左右にスケートを押すことで前に進むように。

つまり、静的バランスでなく動的バランスを目指すということ。

私の一次プロセスは動かないことなので、不動ということも大事なんだけど。

セラピー恐怖への対処 10/5/09

セラピーセッション対策』で少し触れたセラピーセッション中のパニック感について、PW仲間と話した。

私以外はセッションの恩恵をたっぷり受けているみたいでどうにもうらやましくて、意気上がらず。

なんの因果で私はPWが好きなのにセラピーセッションがこんなに苦手なのか。

上記で触れた、サーチライトで照らされて尋問されているような感じ、というのがやはり鍵だと思う。

自己への受容的な気づき』に「サーチライトみたいな詮索的な視線ではなくて坐禅のときのような受容的な気づきを自分の身体に向けてみたら」と書いたときは、照らされている側の反対側である照らしている側の視線の質を問うている。

物を相手にしているときは受容的な視線を保つことが比較的たやすいが、人間相手だと私自身サーチライト的な視線になりやすい。

これはセラピーセッションに限らずすべての対話的状況にあてはまる。

照らすにせよ照らされるにせよ、サーチライト的な視線だと相手とコネクトするのはむずかしいだろう。

対人不安とアイコンタクト』のように人といるときの不安を言っておくと多少は楽になる。

プロセスワークの人だったら、相手にインナーワークをその場でしてもらうという手もある。

内省的な環境は私にとって呼吸しやすいから。

つまり、セラピーあるいは対話恐怖への対処法としては、自分の視線の質への気づきと保つことと、相手に注文して私の住みやすい環境にしてもらうという二点が今のところ実践的だと思う。

あ、それから、サーチライト的な視線ももっと探求する価値がある。

悪者ロールのサポート 10/4/09

コミュニティミーティング、昨日書いたように言いたいことがあったのだが、なかなか言えず、結局最後の数分になってやっと何か言えた。

もっと早く言えたらとかもっとすっぱり言えたらとかも思うが、とにかく半歩でも踏み出せたことで合格点を自分にやりたい。

何と言ったか。

Politically incorrectなロールを扱っていきたい、それについては自分一人ではできないから他のPWの人達の協力がほしい、と。

Politically correctというのは、政治的な主流派とでもいう意味だから、incorrectだと政治的な少数派ということになる。

incorrect、すなわち間違っているという形容詞で表現されるくらいだから、かなり弱い少数派と見ていい。

主流派から悪者として見下げられているロールである。

例としては人種差別主義者とかホモフォビアとかナチとか喫煙者などが挙げられる。

こういうロールはプロセスワークの環境でも否定的にしか扱われないことが多い。

でも深層民主主義を実現するにはそれではさびしい。

こういうロールからの発言もじっくり聞けるようなプロセスができたらなあという夢が私にはある。

それは弱い少数派とか引き潮の少数派とかへの私の関心の自然な延長だといえる。

だから言いたいことの一部は言えたと思っている。

コミュニティミーティングの準備 10/3/09

明日はポートランドのプロセスワークのコミュニティミーティング。

前回は「セッションをずいぶん受けたけど役に立たなかった」という爆弾発言をしたのだった。(『コミュニティミーティングでの口論』)

この発言にはそれなりの効果があったと思うが、なんだか言いっぱなしという気もする。

だから今回は何かフォローするようなことを言いたい気がする。

まあそんなに計画して言えるようなことではないが。

どうもミーティングにしろ、グループプロセスのファシリテーションにしろ、事前の準備というのが苦手だ。

今、ここ、のフレッシュな感覚で勝負したいという気持ちがまずある。

前から準備して言ったことはどうも活きが悪い。

とはいえ、準備したことでかえって新鮮な出会いがあるという場合もある。

さて、私はあの発言を悪口として言ったのではない。

今まではあまり役に立つところまで行かなかったが、見込みがあると思うからこれまでつきあってきているんだということを言わないと、あの発言だけでは誤解を生む。

どこに見込みがあるのか。

そうか、ここで私はエッジになって沈没するんだ。

どこに見込みがあるのかを言葉で言えない。

それは私が何を目指しているのかを言葉で言えないからだ。

これは多分、言葉と行動の間の境界の番人が見張っているからだろう。(参考: 『行動に反対する言葉』)

これは人の見ている前で行動したくないという気持ちとも関係している、そういえば。

隠しているというわけじゃないのだが、「まずい、見られてる」いう意識がある。

うーむ、これじゃコミュニティミーティングでネガティブな言い方しかできないわけだ。

とにかく何か言い始めてみよう、明日は。

言い続けられなくても、何か通じることがあるかもしれないし、あるいは私にとって学びになることがあるかもしれないし。

新しい表現の第一段階は混乱と擾乱なんだということを肝に銘じて。

グループの大小とファシリテーション 10/2/09

参加者が五人以下といった小さなグループはファシリテータにとってかえってむずかしいという。

私は何十人何百人という大きなグループのファシリテータをやったことがないが、十人くらいいるとたしかに感じが変わる。

人数が多い方がロールがすっきり立ちやすくて人々がグループのエネルギーに流されてむしろ単純な展開になるという説明を聞いたことがある。

人数が少ないと、グループプロセスだけでなく関係性のファシリテーションが必要になってくる。

PWIの練習グループプロセスでは参加者がよく知っている者同士のことが多いので、どの二人を取っても関係性の歴史がある。

MACFOCのコホート1では練習グループプロセスの機会をとらえて関係性の問題をワークすることが多かった。

そういう雰囲気はディプロマプログラムのコホートXでも見られた。

あるレジデンシーで彼らがグループプロセスにフォーカスしていたとき、何回か私も参加させてもらったが、内輪の関係性を扱うために外部参加者を排除するという流れがみられた。

こういうグループプロセスはコミュニティ作りのためのグループプロセスであるとフレーミングすることができる。

というか、コミュニティはすでにあって、その中の関係性を改善していこうとするグループプロセスだ。

これに比較してワールドワーク的なグループプロセスは参加者がコミュニティを形成しているわけではないから、プロセスの質も違う。

コミュニティ作り的なグループプロセスは関係性の要素が強いから小人数のグループと似た雰囲気になり、ワールドワーク的なグループは関係性があまり表にでないから大人数のグループと似た雰囲気になるといえるだろう。

参考; 『コホートとコミュニティ

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