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プロセスワーク関連のおぼえがき

自己意識の不変神話

自己というのは、自分が変っていない、これからも変らない、という思い込みを除いてはまったく無常である。

気分は変るし、ぱっと思い出せることもどんどん変る。怒っているときはハッピーだったときの自分を思い出せない。

仏教の教える無常を実感しにくいのは、自己意識の基盤にこの不変への錯覚があるからだ。

人はよく「変りたい」と言う。でもこれも実は「何もしなければ自分は変らない」という錯覚を元にした発言だ。

正直なところを言えば自己意識というのは変化への抵抗、変化を認識することへの拒絶から成り立っている。

そしてこれは言葉の性質でもある。ライオンという言葉はかわらない。でもこの言葉が指し示すものは常に流動的に変っているし、もうしばらくしたら地球上にそもそも存在しなくなるかもしれない。

誰かが田中一郎さんだったら、10年経っても、田中一郎さんだ。だから変っていないような幻想を持ちやすい。

だから、言葉を使った相互作用を続ける限り不変の自己という錯覚から逃れることはむずかしい。

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コメント

トラウマと無常

「情報」の性質とは、それじたい変化しないことだ、と養老さんが書いていましたね。言葉の情報としての側面は不変だから、それが無常に対して微妙な位置を持っているというのは、よく分かる話です。

ところで、フロイトは、時間が経ってもそのまま特定の感情がそのまま残っている様子を観察して、トラウマを発見しました。そして、それがずっと残っていてあるとき突然に浮上してくる様子などから、無意識の性質として「無時間性」があるという定式を発見しました。

たぶん、勝手な予想では、禅でいう魔境などは、そうした感情を通過して手放している過程だったりするんじゃいかと思うのですが、無常の認識を安定して手に入れるには、冷凍保存されて変化せずに残っている感情、トラウマを解消していく過程が不可欠だ、というのが僕の考えです。

RE:トラウマと無常

フロイトとトラウマと無意識のお話、初耳でした。
ありがとうございます。

仏教的に言えば、トラウマが浮上しているときの自己と忘れているときの自己は別々ということになるのだと思います。つまり自分という安定したシステムがトラウマを思い出したり、忘れたりしているのではないということです。

僕の感じでは上座仏教は自己の不安定さを徹底して言うのに対して、大乗仏教では仏陀を神様に押し上げると同時に自己ももっと安定したものとして「真の自己」を求めるという感じになるみたいです。で、11/26に書いたこととつなげれば、対象に即して変幻自在な自己が上座仏教の自己で、社会の中で安定した機能を持つ自己が大乗仏教の自己かなと。

トラウマについては、多分トラウマを思い出している自分と忘れている自分の間の振幅を小さくしていく作業が大事なんじゃないかなと予想しています。どっちかに極端に揺れると日常生活上差しさわりがあるので。これは大乗仏教的な考え方ですね、自己の安定性を目指す点で。

【僕の感じでは上座仏教は自己の不安定さを徹底して言うのに対して、大乗仏教では仏陀を神様に押し上げると同時に自己ももっと安定したものとして「真の自己」を求めるという感じになるみたいです。】
とみきおさんがおっしゃるときの大乗仏教って何でしょうか???

大乗仏教の最古の経典は、膨大な般若経典群です。これらはすべて無自性空ということを説くものです。また、竜樹は空の思想を徹底した仏教哲学者だと思います。

真の自己を求める大乗仏教(あるいは初期仏教でも)というのは聴いたことがないです。仏教以前のウパニシャッド哲学などでは、真の自己をアートマンとして、宇宙的な自己であるブラフマンとの梵我一如を説くけれど・・・。

もしかしたら唯識や浄土教の流れの中で、業というものを深く見つめる「契機」に注目して、自己を有的にとらえていると感じられたのかな?

 お風呂で考えたのですが、涅槃経の「一切衆生悉有仏性」という言い方は確かに有的に聞こえる側面があり、みきおさんがそこに着目されているとすると、おっしゃっていることのつじつまが合うように思いました。
 しかし、その仏性というのは、ざっくり言うと「空性に目覚める覚醒そのもの」を指すので、「真の自己」と言い換えることは無理があるように思います。どうしてもどうしても自己という言葉を使うなら「非二元的な自己」とケン・ウイルバーが言うように言うことはまあアリかなとは思いますが・・・。
 ただ、大乗仏教の有的な表現の一例として、これは確かにあるなあと思いました。

大乗仏教

あびさんにコメントしていただいてありがたいです。ポートランドで仏教を学んだ範囲では、大乗仏教の空性には力点がおかれていなかったようでした。自分だけではなく衆生を救うという菩薩道に焦点があったように思います。菩薩道はキリスト教のCharityの思想とうまくつながるからかも。

また、アメリカで僕の周りにいる禅修行者たちは、ユング的な自己実現をイメージしてやっている感じがします。先生がユング好きなのが影響しているのかもしれませんが。

般若経にはそういう感じはないですが、法華経にはほとんど唯一神につながるような何か絶対的なものへの尊崇があるように僕には感じられます。

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[この奇妙な世界について] 意識のこと

processkamakiri氏の「自己意識の不変神話」とそのコメントを読んで、 意識について考えたことを書いてみる。 ぼくは、長い間じぶんというものは連続して存在していると、 無反省に思って生きていた。 しかし、少し仔細に実情を見てみれば、人は一瞬一瞬変化を 続けているわ

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