「大正生命主義と現代」鈴木貞美編: 3/31/08
「日本の文化ナショナリズム」に続いて2冊目の鈴木貞美。
テーマとか手法は前著に似ていると思う。多くの文筆家の作品を素材にして思想の流れを追っているところ。
違うのは、時代が大正前後に限られていて、テーマが「生命主義」であるところ、それに執筆が彼だけでなく全部で20人いるところ。
この生命主義というのは日本独特のものをみつけようとする文化ナショナリズム的な部分もあり、また、外国の思想家からの影響も色濃く受けている。
農村から都会に出て働く人々の精神的な疲労やとまどいをなんとかしようという気持ちで、言葉と観念の操作に熟達した人たちががんばったさまがいろんな角度から、いろんな人々の作品を素材にして語られている。
表題からもなんとなく感じられるが、この生命主義というのは現代の精神世界系の思想と通うものがあるようだ。
この生命主義的な流れがやがて集合的になって、大和魂とか散華の思想へとつながっていったという見方も提示されている。
私の関係する禅センター、UU教会、プロセスワークはいずれもそういう精神世界系と波長が合いやすく、それら3つともがメジャーを目指して展開しつつあるということを考え合わせると、やばいなあと思う。
テーマとか手法は前著に似ていると思う。多くの文筆家の作品を素材にして思想の流れを追っているところ。
違うのは、時代が大正前後に限られていて、テーマが「生命主義」であるところ、それに執筆が彼だけでなく全部で20人いるところ。
この生命主義というのは日本独特のものをみつけようとする文化ナショナリズム的な部分もあり、また、外国の思想家からの影響も色濃く受けている。
農村から都会に出て働く人々の精神的な疲労やとまどいをなんとかしようという気持ちで、言葉と観念の操作に熟達した人たちががんばったさまがいろんな角度から、いろんな人々の作品を素材にして語られている。
表題からもなんとなく感じられるが、この生命主義というのは現代の精神世界系の思想と通うものがあるようだ。
この生命主義的な流れがやがて集合的になって、大和魂とか散華の思想へとつながっていったという見方も提示されている。
私の関係する禅センター、UU教会、プロセスワークはいずれもそういう精神世界系と波長が合いやすく、それら3つともがメジャーを目指して展開しつつあるということを考え合わせると、やばいなあと思う。
禅センターの倫理委員会
禅センターの倫理委員会というのにサブメンバーとして参加している。
今日会合があって、はじめて理解したのだが、これは要するに仲裁機関なのだ。葛藤や虐待があって誰かがそれを訴えたときの訴え先がとりあえずこの委員会になる。
訴えた方と訴えられた方の両方がプロセスに同意して初めて倫理委員会が介入できる。どちらか一方がいやだといえば介入はできない。
じゃあ加害者の方が知らぬ存ぜぬで突っぱねたらどうなるのか、そのときは外部の仲裁者を呼ぶか、先生の権威でなにかしてもらうかということらしい。
禅センターメンバー間の倫理的行動の指針といった文書を先生が書いたのだが、これが10ページ近くてすごくこまかくいろんなことが書いてある。これはかなりの文章読解力がないと理解できないんじゃないかなあとふと思った。
つまり、自分の何かが侵害されたという確信があっても、この文書に書かれている用語やコンセプトを理解できないと訴えることもできない人が出てくるんじゃないかという心配がある。
人間関係の出来事を明示的に言葉にしてがんがん表現できる人にしかこういうシステムは利用できない。ハッカーがコンピュータシステムの弱みをついて利益を上げるように、この倫理委員会みたいなシステムを悪用する人やその犠牲者も出るだろうなあ。
もちろん、倫理規定をはっきり言葉にしてあるからそれを元にして公正な判断を下せるということはたしかにある。もともと、すべてを先生の個人的判断にたよるシステムからの脱皮をはかる一環として倫理委員会が設置されているのだ。
組織の権威の居所を変えるというのは大変なことだが、組織も生き物だからいつかは必要なことでもある。意識的な変更に組織の有機的な部分がどう反応するかが興味深いところだ。
今日会合があって、はじめて理解したのだが、これは要するに仲裁機関なのだ。葛藤や虐待があって誰かがそれを訴えたときの訴え先がとりあえずこの委員会になる。
訴えた方と訴えられた方の両方がプロセスに同意して初めて倫理委員会が介入できる。どちらか一方がいやだといえば介入はできない。
じゃあ加害者の方が知らぬ存ぜぬで突っぱねたらどうなるのか、そのときは外部の仲裁者を呼ぶか、先生の権威でなにかしてもらうかということらしい。
禅センターメンバー間の倫理的行動の指針といった文書を先生が書いたのだが、これが10ページ近くてすごくこまかくいろんなことが書いてある。これはかなりの文章読解力がないと理解できないんじゃないかなあとふと思った。
つまり、自分の何かが侵害されたという確信があっても、この文書に書かれている用語やコンセプトを理解できないと訴えることもできない人が出てくるんじゃないかという心配がある。
人間関係の出来事を明示的に言葉にしてがんがん表現できる人にしかこういうシステムは利用できない。ハッカーがコンピュータシステムの弱みをついて利益を上げるように、この倫理委員会みたいなシステムを悪用する人やその犠牲者も出るだろうなあ。
もちろん、倫理規定をはっきり言葉にしてあるからそれを元にして公正な判断を下せるということはたしかにある。もともと、すべてを先生の個人的判断にたよるシステムからの脱皮をはかる一環として倫理委員会が設置されているのだ。
組織の権威の居所を変えるというのは大変なことだが、組織も生き物だからいつかは必要なことでもある。意識的な変更に組織の有機的な部分がどう反応するかが興味深いところだ。
受けいられないという確信
少人数の、主にアジア系の参加者で人種に関するグループプロセス。
濃い、いいプロセスだった。参加できてよかった。
内容を報告できないのが残念だ。
私自身の感想としては、アメリカにいても日本にいても一番つらいのは、自分の感じていること、考えていることが受け入れられないという確信がゆらがないこと。そしてそうした感じ方や考え方が自分固有のもので、変えられないという確信もあること。
多少でもそのつらさが少ない環境を探すのが私の道だったようだ。
濃い、いいプロセスだった。参加できてよかった。
内容を報告できないのが残念だ。
私自身の感想としては、アメリカにいても日本にいても一番つらいのは、自分の感じていること、考えていることが受け入れられないという確信がゆらがないこと。そしてそうした感じ方や考え方が自分固有のもので、変えられないという確信もあること。
多少でもそのつらさが少ない環境を探すのが私の道だったようだ。
疲れているのに休まないのはなぜ?
特にしなければならないことがあるわけではないのに、なんとなく休めないで夜になるととても疲れている。
メールをチェックする。本を読む。Twin Peaksを見る。よく切れる包丁の説明を聞く。蛍光灯を買う。夕飯を作る。これくらいしかしていないのに目がぴくぴくするくらい疲れている。
ここ数日パートナーが夜咳をしていたので、こちらの睡眠時間もけずられてはいるが、それならどんと昼寝して取り返せばいいのにそうしていないのは何故だろう?
こういうときは気功でもたっぷりやってエネルギーを回復したほうがいいんだろうな、ととりあえず納得。
メールをチェックする。本を読む。Twin Peaksを見る。よく切れる包丁の説明を聞く。蛍光灯を買う。夕飯を作る。これくらいしかしていないのに目がぴくぴくするくらい疲れている。
ここ数日パートナーが夜咳をしていたので、こちらの睡眠時間もけずられてはいるが、それならどんと昼寝して取り返せばいいのにそうしていないのは何故だろう?
こういうときは気功でもたっぷりやってエネルギーを回復したほうがいいんだろうな、ととりあえず納得。
「私」を定義するシステム: 3/27/08
「私」というコンセプトは、「私」がどんな構造の中の要素としてあるのかということでほぼ定義される。
昔風の村、つまりゲマインシャフトの場合は、村の中の家族関係の網目の一つが「私」だ。
宗教的共同体の場合の「私」は、その宗教の神をなんらかの意味で分かちもつ者として共同体の中の他の成員と関係していく。
仏教で出家ということを言い、キリスト教で神がアブラハムに息子を生贄にしろとかいうのは、家族的共同体から宗教的共同体への遷移を象徴している。
今日の市場社会では、「私」は消費者として、また労働者として定義される。消費者としての「私」は労働者としての「私」よりももっと根が深い。労働しない人はいても消費しない人はまずいないからだ。
この3つ、すなわち家族、信者、そして消費者としての「私」の間の違いが問題になるときに個人主義が浮上してくる。
明治時代の日本の小説は家族のしがらみから脱けだそうとする「私」のもがきを描いたものが多かったらしいが、そのときの「私」は宗教的な要素が強かったようだ。ここでは宗教の中にイデオロギーや文芸運動、哲学的確信も含める。つまり、人間とはこういうものであると主張するシステムだ。
宗教的共同体と家族的共同体というのは具体的な社会ではどこでも複雑怪奇に混ざり合っているものだ。都市は必ず消費社会的要素を強く持っているが、それでも前二者の要素も残っている。
今日でもたとえば家族の一員が新興宗教にはまった場合には同じようなパターンになる。そういうとき「私」は個人であることを痛切に、あるいは誇らしげに感じる。
「私」というコンセプトと切り離せないのが自由というコンセプトだが、この自由は、あるシステムの中に居心地よくはまってそのシステムが全世界であるように感じる、その感覚だと思う。
たとえば金で物を買うということは、初めて経験する者にはものすごく不自由でストレスの多いプロセスだが、慣れてしまえばこれほど自由なことはない。
名前を思い出せないが、共産党に入って活動していた人が、党を信じることでものすごく自由になったと述懐していた。
禅寺で修行する雲水でもそうだ。きびしい作法をいったん身につけて無意識にできるようになれば、どっと自由になる。
私は先日友人から「あなたはどう感じているのか?」と聞かれて返答に困った。この困った感じは、友人の質問が想定する「私」が今の自分の「私」とは違うような気がするということから来ている。
今の私はいろいろ起きてくることをとにかくできるだけ面倒見るという「私」であって、自分が何かをしたいとか何かを欲しいとかいうときの主体としての「私」ではないからだ。
前者は家族的な「私」、後者は消費者的な「私」といえるかもしれない。欲しいものを手に入れる、というのは基本的に消費者的な態度である。
ところで、家族的な「私」は家族の外では家族を代表する個人としてふるまう。すごく自己主張が強かったりする。家族内では従順であっても。
これは日本人としての「私」が日本ではいろいろ気に入らないことがあってもだまっているのに、外国にいると日本の代表として意見を言いたくなったりするのと似ている。
このように「私」は自分の属するシステムの外に出るとそのシステムの代表としてふるまう傾向がある。これは、「私」がこのシステムの中の関係や構造を理解していて、それを理解しない外の人間に出会うと、無意識に教師としてふるまうからだろう。
個人的に言えば、私自身は家族的な「私」のウェイトが大きい。信者的な「私」、つまり言葉で定義されたシステムへの忠誠心を持つ「私」とか、消費者的な「私」、つまり欲しいものがあってそれを手に入れるために行動するという「私」とかを中心にして生きたことはないし、これからもないだろうと思う。
昔風の村、つまりゲマインシャフトの場合は、村の中の家族関係の網目の一つが「私」だ。
宗教的共同体の場合の「私」は、その宗教の神をなんらかの意味で分かちもつ者として共同体の中の他の成員と関係していく。
仏教で出家ということを言い、キリスト教で神がアブラハムに息子を生贄にしろとかいうのは、家族的共同体から宗教的共同体への遷移を象徴している。
今日の市場社会では、「私」は消費者として、また労働者として定義される。消費者としての「私」は労働者としての「私」よりももっと根が深い。労働しない人はいても消費しない人はまずいないからだ。
この3つ、すなわち家族、信者、そして消費者としての「私」の間の違いが問題になるときに個人主義が浮上してくる。
明治時代の日本の小説は家族のしがらみから脱けだそうとする「私」のもがきを描いたものが多かったらしいが、そのときの「私」は宗教的な要素が強かったようだ。ここでは宗教の中にイデオロギーや文芸運動、哲学的確信も含める。つまり、人間とはこういうものであると主張するシステムだ。
宗教的共同体と家族的共同体というのは具体的な社会ではどこでも複雑怪奇に混ざり合っているものだ。都市は必ず消費社会的要素を強く持っているが、それでも前二者の要素も残っている。
今日でもたとえば家族の一員が新興宗教にはまった場合には同じようなパターンになる。そういうとき「私」は個人であることを痛切に、あるいは誇らしげに感じる。
「私」というコンセプトと切り離せないのが自由というコンセプトだが、この自由は、あるシステムの中に居心地よくはまってそのシステムが全世界であるように感じる、その感覚だと思う。
たとえば金で物を買うということは、初めて経験する者にはものすごく不自由でストレスの多いプロセスだが、慣れてしまえばこれほど自由なことはない。
名前を思い出せないが、共産党に入って活動していた人が、党を信じることでものすごく自由になったと述懐していた。
禅寺で修行する雲水でもそうだ。きびしい作法をいったん身につけて無意識にできるようになれば、どっと自由になる。
私は先日友人から「あなたはどう感じているのか?」と聞かれて返答に困った。この困った感じは、友人の質問が想定する「私」が今の自分の「私」とは違うような気がするということから来ている。
今の私はいろいろ起きてくることをとにかくできるだけ面倒見るという「私」であって、自分が何かをしたいとか何かを欲しいとかいうときの主体としての「私」ではないからだ。
前者は家族的な「私」、後者は消費者的な「私」といえるかもしれない。欲しいものを手に入れる、というのは基本的に消費者的な態度である。
ところで、家族的な「私」は家族の外では家族を代表する個人としてふるまう。すごく自己主張が強かったりする。家族内では従順であっても。
これは日本人としての「私」が日本ではいろいろ気に入らないことがあってもだまっているのに、外国にいると日本の代表として意見を言いたくなったりするのと似ている。
このように「私」は自分の属するシステムの外に出るとそのシステムの代表としてふるまう傾向がある。これは、「私」がこのシステムの中の関係や構造を理解していて、それを理解しない外の人間に出会うと、無意識に教師としてふるまうからだろう。
個人的に言えば、私自身は家族的な「私」のウェイトが大きい。信者的な「私」、つまり言葉で定義されたシステムへの忠誠心を持つ「私」とか、消費者的な「私」、つまり欲しいものがあってそれを手に入れるために行動するという「私」とかを中心にして生きたことはないし、これからもないだろうと思う。
唐突な悲しみをどう表現?
中年から老年の男5人のメンズグループのファシを毎月数ヶ月やっている。
今日もやった。
ひとつ気がついたこと。特に理由もなく悲しい気持ちになってきたのを表現しなかったのでグループの中にとにかくい続けるというファシリテータの最重要な役割を果たせなかった。
プロセスワークの人たちとならある程度は「なんか急に悲しくなった」とか言えるかもしれないが、それでもかなりエッジがある。そうでない人とだともうちょっと不可能に近い。
悲しいというからにはなにかコンテクスト(文脈)をつけて言わないと唐突だという内部批判が聞こえるのだ。
ちょうどみんなが「このグループでいろいろ話せて感謝している」と言っているときだったので、悲しい気持ちになっているというのが場違いと思った。
それでも何らかの形で表現するべきだなあ。どんな形かなあ。
今日もやった。
ひとつ気がついたこと。特に理由もなく悲しい気持ちになってきたのを表現しなかったのでグループの中にとにかくい続けるというファシリテータの最重要な役割を果たせなかった。
プロセスワークの人たちとならある程度は「なんか急に悲しくなった」とか言えるかもしれないが、それでもかなりエッジがある。そうでない人とだともうちょっと不可能に近い。
悲しいというからにはなにかコンテクスト(文脈)をつけて言わないと唐突だという内部批判が聞こえるのだ。
ちょうどみんなが「このグループでいろいろ話せて感謝している」と言っているときだったので、悲しい気持ちになっているというのが場違いと思った。
それでも何らかの形で表現するべきだなあ。どんな形かなあ。
コミュニティってなんだ?
私の関係しているコミュニティというとUU教会と禅センターとPWI(プロセスワーク研究所)だけど、これらをコミュニティと呼べるかどうかは微妙だ。
昔の村みたいにみんながみんなをとことん知っている(少なくとも事情を知っている)ようなのをコミュニティというのなら上の3つはコミュニティとはいえない。
でも3つともに共通しているのは、メンバーの中にそれがコミュニティであってほしいという切なる望みがみられることだ。
ではその切望されているコミュニティとはなにか? やはり自分を知っている人の集まり、ということはある。どんなことが好きだとかどんな意見を持っているかとかを知っていてくれて、一から説明する必要のない人々。
さらに、いろいろな相互作用を経て一人一人が異なる機能を持つ有機的な統一体になっていること。
うーん、まだつかみどころがない部分がいろいろあるけど、とりあえず・・・・
これは「コミュニティ新旧」と同工異曲、少しは進歩してるかな。
昔の村みたいにみんながみんなをとことん知っている(少なくとも事情を知っている)ようなのをコミュニティというのなら上の3つはコミュニティとはいえない。
でも3つともに共通しているのは、メンバーの中にそれがコミュニティであってほしいという切なる望みがみられることだ。
ではその切望されているコミュニティとはなにか? やはり自分を知っている人の集まり、ということはある。どんなことが好きだとかどんな意見を持っているかとかを知っていてくれて、一から説明する必要のない人々。
さらに、いろいろな相互作用を経て一人一人が異なる機能を持つ有機的な統一体になっていること。
うーん、まだつかみどころがない部分がいろいろあるけど、とりあえず・・・・
これは「コミュニティ新旧」と同工異曲、少しは進歩してるかな。
「私」という箱はない
(これは、一つ前の『「私」という仮構を外したら?』をアップしたときにデータが失われたみたいだったので書き直したもの。似ているけど違うので残しておく)
見られてどぎまぎしたり、逆に何か相手に向かって言いたくなるとき、「私」がそういう気持ちを持っているというふうにフレーミングするとなんだか調子が狂う。
「私」という箱みたいなものがあってその中に思考や感情があるというふうに考え出すとリアリティが感じられなくなる。
私が存在する、というふうにスイカがそこにでんと置かれているみたいに想像すると変な感じがするのは、実際の経験とあまり呼応しないからだろう。
腹が立ったときに「おれは腹が立っている」というとすでに「おれ」という余計な要素が入ってきてしまう。
人と人の間に何かが起こっているという場合、その起こっていることがまず最初に感知されるのであって、誰と誰という登場人物はその後で事後的にあてはめられる。
ある人に興味があるとか、ある人が好きだとか嫌いだとかいう言い方をすると、そこですでにリアリティから外れてしまっているのだ。
プロセスワークがロールを強調するのは、ある性質や傾向が個人の中に内蔵されているという考え方から自由になるためだ。
見られてどぎまぎしたり、逆に何か相手に向かって言いたくなるとき、「私」がそういう気持ちを持っているというふうにフレーミングするとなんだか調子が狂う。
「私」という箱みたいなものがあってその中に思考や感情があるというふうに考え出すとリアリティが感じられなくなる。
私が存在する、というふうにスイカがそこにでんと置かれているみたいに想像すると変な感じがするのは、実際の経験とあまり呼応しないからだろう。
腹が立ったときに「おれは腹が立っている」というとすでに「おれ」という余計な要素が入ってきてしまう。
人と人の間に何かが起こっているという場合、その起こっていることがまず最初に感知されるのであって、誰と誰という登場人物はその後で事後的にあてはめられる。
ある人に興味があるとか、ある人が好きだとか嫌いだとかいう言い方をすると、そこですでにリアリティから外れてしまっているのだ。
プロセスワークがロールを強調するのは、ある性質や傾向が個人の中に内蔵されているという考え方から自由になるためだ。
「私」という仮構を外したら?
私は自分が見られすぎて困ったり、無視されてしゃくにさわったりしているが、そういうとき「私」という物理的な実体があってそれが見られたり無視されたりしているとつい考えている。
でも実際の経験を見つめてみれば、そんな実体的な「私」は経験自体の中にはない。ただ言葉にするときにそういうふうに表現するだけだ。
実際に経験するのはひやっとする感じや、何か言いたい衝動などだ。それらを「私」が経験していると考えた瞬間に生き物を無理に瓶詰めしたようないやな感じがする。
いちいち「私が」というふうな物語を作らないということを意識してみようかなと思っているところ。
でも実際の経験を見つめてみれば、そんな実体的な「私」は経験自体の中にはない。ただ言葉にするときにそういうふうに表現するだけだ。
実際に経験するのはひやっとする感じや、何か言いたい衝動などだ。それらを「私」が経験していると考えた瞬間に生き物を無理に瓶詰めしたようないやな感じがする。
いちいち「私が」というふうな物語を作らないということを意識してみようかなと思っているところ。
グループプロセスで表現の自由を感じること
考えていることや感じていることを口にするにはそれに適した環境が必要だ。
私の場合、一人で書くというのがけっこういいからこうしてブログを書いている。
グループプロセスも私にとってはいい環境だ。
昨日のDiplomaのコホートXのグループプロセスでは、ただ感じていることを普通に口にできる瞬間があった。一人でいるときよりもさらに自分自身でいられるような。
一対一の会話は相手のことが気になって自由にしゃべれない。このことは「グループ派と一対一派」で書いたことの繰り返しだけど。
今考え直してみると、自分自身でいられるなんていうことよりもただ自由を感じるといった方がいい。いちいち自分というものを想定してそれとそのとき感じていることを合わせようとすることこそがしんどいからだ。
私の場合、一人で書くというのがけっこういいからこうしてブログを書いている。
グループプロセスも私にとってはいい環境だ。
昨日のDiplomaのコホートXのグループプロセスでは、ただ感じていることを普通に口にできる瞬間があった。一人でいるときよりもさらに自分自身でいられるような。
一対一の会話は相手のことが気になって自由にしゃべれない。このことは「グループ派と一対一派」で書いたことの繰り返しだけど。
今考え直してみると、自分自身でいられるなんていうことよりもただ自由を感じるといった方がいい。いちいち自分というものを想定してそれとそのとき感じていることを合わせようとすることこそがしんどいからだ。
死者をねたにして利益を追求するなということ
「他者と死者」からまたねたを拾う。
レヴィナスは、殺された人々の名において戦争を始める傾向について強い警告を発していたらしい。
レヴィナスがユダヤ人であることを考えると、これは重い発言だ。
私も以前から、自分が正しいことをしていると信じている人々の方が、ひどいことをするものだと思っていた。その正しさが「犠牲者の立場に立って」のものだと本当に恐ろしいことになる。これは要するに復讐だからだ。
そういう意味では、60万とも80万ともいう民間人を空襲などで虐殺された日本が戦後まったくそのことでアメリカを非難していないことはいいことなのだろう。
これは日本が誇るべきことの一つだと思う。
保険という制度がひどいことになってきているのも、人の死や怪我を補償しようという意図がもともと間違っているからだと私は思う。これはちょっと極端な考え方だろうが。
死んだ人やなくした手足をどう評価するかなんてことよりも、生きてる人たちがちゃんと暮らしていけるようにする配慮が大事だ。死んだ人はもう済んでしまったのだから今さらどうこう言ってもしょうがないのである。
ましてこの人が生きていたら何億円稼いだはずだからそれを補償しろとかいうのは取らぬ狸の皮算用を他人や国に払わせる、非倫理的な行為だ。
人の死や不幸を使って利益を得ようとすることをレヴィナスはいましめたのだと私は解釈している。
レヴィナスは、殺された人々の名において戦争を始める傾向について強い警告を発していたらしい。
レヴィナスがユダヤ人であることを考えると、これは重い発言だ。
私も以前から、自分が正しいことをしていると信じている人々の方が、ひどいことをするものだと思っていた。その正しさが「犠牲者の立場に立って」のものだと本当に恐ろしいことになる。これは要するに復讐だからだ。
そういう意味では、60万とも80万ともいう民間人を空襲などで虐殺された日本が戦後まったくそのことでアメリカを非難していないことはいいことなのだろう。
これは日本が誇るべきことの一つだと思う。
保険という制度がひどいことになってきているのも、人の死や怪我を補償しようという意図がもともと間違っているからだと私は思う。これはちょっと極端な考え方だろうが。
死んだ人やなくした手足をどう評価するかなんてことよりも、生きてる人たちがちゃんと暮らしていけるようにする配慮が大事だ。死んだ人はもう済んでしまったのだから今さらどうこう言ってもしょうがないのである。
ましてこの人が生きていたら何億円稼いだはずだからそれを補償しろとかいうのは取らぬ狸の皮算用を他人や国に払わせる、非倫理的な行為だ。
人の死や不幸を使って利益を得ようとすることをレヴィナスはいましめたのだと私は解釈している。
見られることへのエッジ
このごろ二つの方向に分極化している。
MACFOCのときのように上下関係のシステムに入って上から学ぼうというのが一つの極。
反対の極は子供のときみたいに虫とか普段下に見られているものから学ぼうというもの。
学ぶというところが共通なんだなと今気がついた。
今日もコホートXのグループプロセスに行って、ある人と私の間のプロセスになった。そのときはっきり感じていたのにいわなかったのは、相手に見られているということがすごいインパクトになっていたということ。
学ぶの逆は教えるだが、学ぶが主に見ることであるのに対して、教えるは見られることだ。
つまり今の私は見られることに対する強いエッジがあるんだなということ。
舌ッ足らずで申し訳ないが、今日はこれが一時的解決ということで・・・
MACFOCのときのように上下関係のシステムに入って上から学ぼうというのが一つの極。
反対の極は子供のときみたいに虫とか普段下に見られているものから学ぼうというもの。
学ぶというところが共通なんだなと今気がついた。
今日もコホートXのグループプロセスに行って、ある人と私の間のプロセスになった。そのときはっきり感じていたのにいわなかったのは、相手に見られているということがすごいインパクトになっていたということ。
学ぶの逆は教えるだが、学ぶが主に見ることであるのに対して、教えるは見られることだ。
つまり今の私は見られることに対する強いエッジがあるんだなということ。
舌ッ足らずで申し訳ないが、今日はこれが一時的解決ということで・・・
「生き残り」のプロセスと「盗み」のプロセス
今度はDiplomaのコホートXの人たちを中心とするグループプロセスに参加。
最近卒業した人も含めてプロセスワーク経験の豊かな人たち10-12人ほどのグループ。
1時間のグループを1つやった後別のファシリテータでもう1つやった。
最初のグループでは「生き残り」がテーマになった。生き残る人、生き残らなかった人、春がまためぐってきたこと、いろいろの思いでしんみりしたグループになった。
私自身は、生き残りっていうのは取り残されたということでもあるんだなとあらためて気付いた。
次のグループでは「盗み」がテーマになり、ロールプレーで「金持ち」を演じた人が別の参加者にかつがれてサークルの中から部屋のはじっこに移されるという大技が出た。
その後はプロセスがやたら錯綜して、最近グループおたくになりつつある私もちょっとどう見ていいのかわからなかった。
自分のエネルギーを出してプロセスの進行に協力する気がしない、というロールがわりとみんなのうなずきを受けていたくらいか。
グループの後で、私はあの「金持ち」がアーニーで、あのプロセスはPWIの中でアーニー中心からシステム中心の機構に変わったことを象徴していたんだという仮説を立ててみた。
プロセスワークの学生としては最上級生といえる人たちがあそこまでみんなエッジアウトするのは多分プロセスワークコミュニティそのものに身近に触れるテーマが出掛かっていたからじゃないか、と思ったのだ。
個人的には、去年まで3年間MACFOCの芋洗いの中で同級生たちとぶつかったり仲良くなったりしながらどまんなかで生きていたのが、今はいろんな意味で蚊帳の外に出てるというトラウマがちょっとあってノックアウト気味だったと思う。
最近卒業した人も含めてプロセスワーク経験の豊かな人たち10-12人ほどのグループ。
1時間のグループを1つやった後別のファシリテータでもう1つやった。
最初のグループでは「生き残り」がテーマになった。生き残る人、生き残らなかった人、春がまためぐってきたこと、いろいろの思いでしんみりしたグループになった。
私自身は、生き残りっていうのは取り残されたということでもあるんだなとあらためて気付いた。
次のグループでは「盗み」がテーマになり、ロールプレーで「金持ち」を演じた人が別の参加者にかつがれてサークルの中から部屋のはじっこに移されるという大技が出た。
その後はプロセスがやたら錯綜して、最近グループおたくになりつつある私もちょっとどう見ていいのかわからなかった。
自分のエネルギーを出してプロセスの進行に協力する気がしない、というロールがわりとみんなのうなずきを受けていたくらいか。
グループの後で、私はあの「金持ち」がアーニーで、あのプロセスはPWIの中でアーニー中心からシステム中心の機構に変わったことを象徴していたんだという仮説を立ててみた。
プロセスワークの学生としては最上級生といえる人たちがあそこまでみんなエッジアウトするのは多分プロセスワークコミュニティそのものに身近に触れるテーマが出掛かっていたからじゃないか、と思ったのだ。
個人的には、去年まで3年間MACFOCの芋洗いの中で同級生たちとぶつかったり仲良くなったりしながらどまんなかで生きていたのが、今はいろんな意味で蚊帳の外に出てるというトラウマがちょっとあってノックアウト気味だったと思う。
他者への欲望: 3/19/08
また昨日の続きになる。
昨日触れた「仰ぎ見る視線」が他者と関係する唯一の方法だというふうにレヴィナスは言っているらしい。
この文脈では、他者は相互理解が不能な相手と定義されていて、相互理解が可能な相手は「他我」となっている。
私流の理解では、他我というのはたとえば競争相手だ。同じ者を目指して張り合う競争相手というのは互いをよく理解できる。だからこれは他我だ。
他者の好例は恋愛の対象だろう。何を考えているのかわからないけれどとてつもなく惹かれるという意味で。
他者の好例が恋愛の対象だということになると、この「仰ぎ見る視線」が「欲望」であるこというレヴィナスの言い方もわりとすんなりわかる。
レヴィナスは欲望と欲求を区別している。欲求はたとえば食欲のように、欠損を補う衝動だ。だから食べれば満たされて落ち着く。欲望はそうではなくて、なにかわからない未知のものへの志向性であり、しかも満たされるということを拒否する。
知らないものを求めるというのは変だが、自分の知っているものでは決して満たされない欲望、というのはなんかわかる気がする。
プロセスワークの観点からこの「欲望」を吟味してみるとおもしろそうだ。仰ぎ見る視線というふうに上下関係が示唆されているところからして、これはランクに関連していると見当をつけることができる。
プロセスワークではランクはただ地位といった感じで、実用上は自分の高いランクへの気づきを持つことが大事だといわれる。でないとランクの低い相手にとって抑圧的な状況を作ってしまうからだ。
このランクの概念にレヴィナス流の志向性を加味してみると、ランクが高いというのは相手の欲望の対象になっているということだろう。ランクに無自覚だというのは、高ランク者の義務である師の役割を果たすことをちゃんとしていないということになる。
これは欲望をあおるだけで欲しいものをやらないという意味ではない。本来欲望というのは何かをもらったから収まるというものではないのだから。
師の役割というのはこの本にも書かれているように、正しく欲望をあおることなのだ。
この本にも禅の「月をさす指」が引用されているように、師の役目は弟子の欲望の方向性をしっかりさせることだ。実は師を仰ぎ見るのではなくて師がさしている月を仰ぎ見るのが本来なのだ。
社会学的に見れば、こうして人々の欲望の方向性が一致すると、それはつまり人々の心がその方向に向かって開いているということだから、社会全体がその方向から来る引力に向かって整合的に動ける端緒が与えられる。
昨日触れた「仰ぎ見る視線」が他者と関係する唯一の方法だというふうにレヴィナスは言っているらしい。
この文脈では、他者は相互理解が不能な相手と定義されていて、相互理解が可能な相手は「他我」となっている。
私流の理解では、他我というのはたとえば競争相手だ。同じ者を目指して張り合う競争相手というのは互いをよく理解できる。だからこれは他我だ。
他者の好例は恋愛の対象だろう。何を考えているのかわからないけれどとてつもなく惹かれるという意味で。
他者の好例が恋愛の対象だということになると、この「仰ぎ見る視線」が「欲望」であるこというレヴィナスの言い方もわりとすんなりわかる。
レヴィナスは欲望と欲求を区別している。欲求はたとえば食欲のように、欠損を補う衝動だ。だから食べれば満たされて落ち着く。欲望はそうではなくて、なにかわからない未知のものへの志向性であり、しかも満たされるということを拒否する。
知らないものを求めるというのは変だが、自分の知っているものでは決して満たされない欲望、というのはなんかわかる気がする。
プロセスワークの観点からこの「欲望」を吟味してみるとおもしろそうだ。仰ぎ見る視線というふうに上下関係が示唆されているところからして、これはランクに関連していると見当をつけることができる。
プロセスワークではランクはただ地位といった感じで、実用上は自分の高いランクへの気づきを持つことが大事だといわれる。でないとランクの低い相手にとって抑圧的な状況を作ってしまうからだ。
このランクの概念にレヴィナス流の志向性を加味してみると、ランクが高いというのは相手の欲望の対象になっているということだろう。ランクに無自覚だというのは、高ランク者の義務である師の役割を果たすことをちゃんとしていないということになる。
これは欲望をあおるだけで欲しいものをやらないという意味ではない。本来欲望というのは何かをもらったから収まるというものではないのだから。
師の役割というのはこの本にも書かれているように、正しく欲望をあおることなのだ。
この本にも禅の「月をさす指」が引用されているように、師の役目は弟子の欲望の方向性をしっかりさせることだ。実は師を仰ぎ見るのではなくて師がさしている月を仰ぎ見るのが本来なのだ。
社会学的に見れば、こうして人々の欲望の方向性が一致すると、それはつまり人々の心がその方向に向かって開いているということだから、社会全体がその方向から来る引力に向かって整合的に動ける端緒が与えられる。
仰ぎ見る関係: 3/18/08
昨日触れた「他者と死者」に、師が弟子に教える唯一のことは仰ぎ見るという視線の角度だ、というようなことが書いてあった。
自分には絶対に越えられない叡智を持った人として師を見るという視線を持つと、人は外に向かって開いていくのだという。
私は上下関係が苦手で、だから一芸に秀でた人から学ぶことができないという制限がある。残念だけれど、しかたがない。
この本ではさらに、この「仰ぎ見る」視線はすべての人間関係の基盤だという。
私の経験では、一人の師や一つの神を仰ぎ見るという視線を共有する人同士は深い関係性を無結ぶことができるように見える。私は人や神を仰ぎ見る対象として見られないのでうらやましいと思う。
レヴィナスの引用として「先生というのは何も知らなくても教壇に立つだけで学生が学べる」という極論も紹介されている。知っているはずの誰か、がそこにいるだけで学生は突然何かを理解してしまう、ということらしい。これはわかる気がする。
私はむしろ下を見ているときに学ぶようだ。子供の頃に虫と遊んでしょっちゅう殺していたが、そのたびに何かずしんとくるものを学んでいた気がする。相手を自分と同類のものとしてみないという点で仰ぎ見る視線と下に向かう視線は似ているのかもしれない。
著者の内田氏は、他者というものを共感不能な相手という風に規定する。というかレヴィナスがそう規定したらしい。
レヴィナスは倫理学者でもあるが、だから彼の倫理は「自分のしてほしくないことは相手にもしない」という倫理ではない。なぜならこの言明は相手が何をして欲しいのかわかっていなければ有用でないからだ。
私の人間観はこういう意味での「他者」に近い。人間って何をするのか見当もつかない生き物だ。近寄ってみたい気はするし、ときには実際に近寄ってみるが、いつ突き飛ばされるか、あるいはいつ引き込まれて捕まってしまうか、予想がつかない。
この辺からまた脱線しそうだが、この「仰ぎ見る視線」というのは、異なる文明同士が初めてであったときに起こりがちな事態を思い出させる。
歴史上、異なる文明が出会ってだんだん仲良くなって融合したなんてことはないようだ。最初の関係性はたいていこぶしによる関係性、つまり戦争だ。それで勝敗が付くと、この「仰ぎ見る」関係が始まる。
敗者は勝者を仰ぎ見て生きるようになる。そこで初めて両文明の融合が始まる。
逆に言うと、平等の関係にこだわると、自分に似た相手としか関係を結べないので世界が平板になる。
関係が深まるほど平等性は薄れる。片方がまったく無力な崇拝者として、他方が全能者として向き合うときが来る。もっとも全能者を全能にしているのは崇拝者の欲望なのだから、依存関係は逆になっている。
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自分には絶対に越えられない叡智を持った人として師を見るという視線を持つと、人は外に向かって開いていくのだという。
私は上下関係が苦手で、だから一芸に秀でた人から学ぶことができないという制限がある。残念だけれど、しかたがない。
この本ではさらに、この「仰ぎ見る」視線はすべての人間関係の基盤だという。
私の経験では、一人の師や一つの神を仰ぎ見るという視線を共有する人同士は深い関係性を無結ぶことができるように見える。私は人や神を仰ぎ見る対象として見られないのでうらやましいと思う。
レヴィナスの引用として「先生というのは何も知らなくても教壇に立つだけで学生が学べる」という極論も紹介されている。知っているはずの誰か、がそこにいるだけで学生は突然何かを理解してしまう、ということらしい。これはわかる気がする。
私はむしろ下を見ているときに学ぶようだ。子供の頃に虫と遊んでしょっちゅう殺していたが、そのたびに何かずしんとくるものを学んでいた気がする。相手を自分と同類のものとしてみないという点で仰ぎ見る視線と下に向かう視線は似ているのかもしれない。
著者の内田氏は、他者というものを共感不能な相手という風に規定する。というかレヴィナスがそう規定したらしい。
レヴィナスは倫理学者でもあるが、だから彼の倫理は「自分のしてほしくないことは相手にもしない」という倫理ではない。なぜならこの言明は相手が何をして欲しいのかわかっていなければ有用でないからだ。
私の人間観はこういう意味での「他者」に近い。人間って何をするのか見当もつかない生き物だ。近寄ってみたい気はするし、ときには実際に近寄ってみるが、いつ突き飛ばされるか、あるいはいつ引き込まれて捕まってしまうか、予想がつかない。
この辺からまた脱線しそうだが、この「仰ぎ見る視線」というのは、異なる文明同士が初めてであったときに起こりがちな事態を思い出させる。
歴史上、異なる文明が出会ってだんだん仲良くなって融合したなんてことはないようだ。最初の関係性はたいていこぶしによる関係性、つまり戦争だ。それで勝敗が付くと、この「仰ぎ見る」関係が始まる。
敗者は勝者を仰ぎ見て生きるようになる。そこで初めて両文明の融合が始まる。
逆に言うと、平等の関係にこだわると、自分に似た相手としか関係を結べないので世界が平板になる。
関係が深まるほど平等性は薄れる。片方がまったく無力な崇拝者として、他方が全能者として向き合うときが来る。もっとも全能者を全能にしているのは崇拝者の欲望なのだから、依存関係は逆になっている。
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「他者と死者」内田樹著: 3/17/08
「他者と死者—-ラカンによるレヴィナス」内田樹著(海鳥社)。
読者に知識ではなく志向性を与えるような書き方、ということについて述べている部分が面白い。
読みながら読者が著者からの遅れを感じ、追いつきたいと欲望するような書き方、らしい。
この本でもう一つ注意を引いたのは、レヴィナスが「存在」という観点からものごとを見ることをやめようとして「存在するとは別の仕方で」という本を書いたということ。
私自身、たとえば「あなたは今何を感じているの?」と聞かれて困ることがある。感情は遍在的なものだと以前に書いたことがあるが、自分というものがあってその中に感情があるとイメージするとどうもぴんとこない。
この感じはレヴィナスが「存在」という考え方からのがれようとしたこととどこか結びついていると思う。
それじゃ自己なんてものは存在しないと言ってしまえばいいとも思うが、この本ではそれはだめだと言う。何かが存在するとかしないとかいう議論は存在ということを自明の前提としているのだから、まだ存在論の手のひらから抜け出せていないのだ。
ところで、なんでレヴィナスが「存在」の呪縛から逃れようとしたかというと、二度の世界大戦で何千万という死者が出た構造的な要因として「存在」という考え方があったのだと彼が見ていたかららしい。
これは私見だが、第二次大戦でドイツに占領されてとりあえずその政策に従っていたフランス人は、ドイツ支配下の自分というものと、戦後のアメリカ主導の世界での自分というものの間の矛盾が大きいために自己とか存在とかいうことを当然視しない傾向があるのかなと思った。
この本でも、ラカンが占領下のフランスでドイツとのコネを使ってはぶりよく生きながらもユダヤ人の恋人と二人の間の子供を守るのに必死だったこと、レヴィナスはユダヤ人で家族はそのためすべて殺されたが彼自身はフランス兵として捕虜になったために比較的楽に捕虜生活を送ったことに触れている。
どっちにもびしっと属せないつらさは私の父の経験でもあったらしいので、人事ではない。父はサイパン島の玉砕時に生き残って捕虜になり、ハワイの収容所で戦争を早く終らせるために米軍の広報作戦に協力しているときに広島と長崎の原爆投下のニュースを聞いた。
アメリカにいると、少なくとも第二次大戦はアメリカが絶対的に正しかった戦争であるという前提から話ができるので議論がすっきりするが、同時に恐ろしく不毛な議論にもなる。
アメリカでは何か正しいことをすれば万事解決になるはずだというナイーブな信仰が強い。でも世の中はしばしばどっちを選んでも地獄という選択に満ちている。
存在するとかしないとか、正しいとか間違っているとか、すっきり議論ができるのはこの文の最初に触れた「志向性」が論者の間で共有されている場合だけだと私は思う。
だからこの本の最初で「志向性」の重要さが指摘されていることと、「存在」を当然視しない立場とはつながっているとも思う。あるものが存在するということが意識の視野に入ってくるということ自体が志向性に依存するからだ。
レヴィナスが「他者」と呼ぶのは、共通理解が不可能な相手であり、しかし「欲望」によって関係が成り立ちうるのだという。この欲望も志向性の一つの表現だ。
現代社会では各企業がしのぎをけずって消費者の欲望・志向性を自社の都合のいい方向に向けようとしている。宣伝というのはそういうことだと思う。
もっと想像をたくましくすれば、企業はそれぞれ勝手に消費者の欲望を方向付けようとしているのではなく、集合的にある方向に向けようとしている。全体的にある一定の方向に欲望が流れないと消費の勢いが止まってしまうからだ。
さらに脱線だが、最近ではコマーシャルで他企業の製品をけなすという作戦が使われなくなってきている。日本では数十年前からこの作戦は使われていないが、アメリカでは最近までけっこうあった。でも今は競合他社の製品をけなして自社製品を良く見せるコマーシャルはほとんど姿を消した。
これは選挙のネガティブキャンペーンと同じで、互いにけなしあう企業同士は総体として消費者から嫌われることになるからだ。政治家がますますネガティブキャンペーンに夢中になり、反対に企業が自製品のよさをイメージで語るだけで他者製品との比較を控えている状態は興味深い。
どんどんネガティブキャンペーンをやりながら、投票して政治に参加しようなんて言ってもだめだろう。巨額の選挙資金を使って政治家の悪口ばかり言っていれば、国民が投票しなくなるのは当たり前だと私は思う。
ええと、脱線続きでおちのつけようもないがくたびれたのでこれで今日は終る。
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読者に知識ではなく志向性を与えるような書き方、ということについて述べている部分が面白い。
読みながら読者が著者からの遅れを感じ、追いつきたいと欲望するような書き方、らしい。
この本でもう一つ注意を引いたのは、レヴィナスが「存在」という観点からものごとを見ることをやめようとして「存在するとは別の仕方で」という本を書いたということ。
私自身、たとえば「あなたは今何を感じているの?」と聞かれて困ることがある。感情は遍在的なものだと以前に書いたことがあるが、自分というものがあってその中に感情があるとイメージするとどうもぴんとこない。
この感じはレヴィナスが「存在」という考え方からのがれようとしたこととどこか結びついていると思う。
それじゃ自己なんてものは存在しないと言ってしまえばいいとも思うが、この本ではそれはだめだと言う。何かが存在するとかしないとかいう議論は存在ということを自明の前提としているのだから、まだ存在論の手のひらから抜け出せていないのだ。
ところで、なんでレヴィナスが「存在」の呪縛から逃れようとしたかというと、二度の世界大戦で何千万という死者が出た構造的な要因として「存在」という考え方があったのだと彼が見ていたかららしい。
これは私見だが、第二次大戦でドイツに占領されてとりあえずその政策に従っていたフランス人は、ドイツ支配下の自分というものと、戦後のアメリカ主導の世界での自分というものの間の矛盾が大きいために自己とか存在とかいうことを当然視しない傾向があるのかなと思った。
この本でも、ラカンが占領下のフランスでドイツとのコネを使ってはぶりよく生きながらもユダヤ人の恋人と二人の間の子供を守るのに必死だったこと、レヴィナスはユダヤ人で家族はそのためすべて殺されたが彼自身はフランス兵として捕虜になったために比較的楽に捕虜生活を送ったことに触れている。
どっちにもびしっと属せないつらさは私の父の経験でもあったらしいので、人事ではない。父はサイパン島の玉砕時に生き残って捕虜になり、ハワイの収容所で戦争を早く終らせるために米軍の広報作戦に協力しているときに広島と長崎の原爆投下のニュースを聞いた。
アメリカにいると、少なくとも第二次大戦はアメリカが絶対的に正しかった戦争であるという前提から話ができるので議論がすっきりするが、同時に恐ろしく不毛な議論にもなる。
アメリカでは何か正しいことをすれば万事解決になるはずだというナイーブな信仰が強い。でも世の中はしばしばどっちを選んでも地獄という選択に満ちている。
存在するとかしないとか、正しいとか間違っているとか、すっきり議論ができるのはこの文の最初に触れた「志向性」が論者の間で共有されている場合だけだと私は思う。
だからこの本の最初で「志向性」の重要さが指摘されていることと、「存在」を当然視しない立場とはつながっているとも思う。あるものが存在するということが意識の視野に入ってくるということ自体が志向性に依存するからだ。
レヴィナスが「他者」と呼ぶのは、共通理解が不可能な相手であり、しかし「欲望」によって関係が成り立ちうるのだという。この欲望も志向性の一つの表現だ。
現代社会では各企業がしのぎをけずって消費者の欲望・志向性を自社の都合のいい方向に向けようとしている。宣伝というのはそういうことだと思う。
もっと想像をたくましくすれば、企業はそれぞれ勝手に消費者の欲望を方向付けようとしているのではなく、集合的にある方向に向けようとしている。全体的にある一定の方向に欲望が流れないと消費の勢いが止まってしまうからだ。
さらに脱線だが、最近ではコマーシャルで他企業の製品をけなすという作戦が使われなくなってきている。日本では数十年前からこの作戦は使われていないが、アメリカでは最近までけっこうあった。でも今は競合他社の製品をけなして自社製品を良く見せるコマーシャルはほとんど姿を消した。
これは選挙のネガティブキャンペーンと同じで、互いにけなしあう企業同士は総体として消費者から嫌われることになるからだ。政治家がますますネガティブキャンペーンに夢中になり、反対に企業が自製品のよさをイメージで語るだけで他者製品との比較を控えている状態は興味深い。
どんどんネガティブキャンペーンをやりながら、投票して政治に参加しようなんて言ってもだめだろう。巨額の選挙資金を使って政治家の悪口ばかり言っていれば、国民が投票しなくなるのは当たり前だと私は思う。
ええと、脱線続きでおちのつけようもないがくたびれたのでこれで今日は終る。
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家族の会話から外れる
久しぶりに一家四人に戻り、夕食やレストランで一緒に食べた。
でも妻子三人のしゃべっていることに今一つ興味が持ちにくいし、私が何か言ったりきいたりしてもすぐに会話からはじき出される感じがする。
自分の中でも、たとえば先日たくさん参加したグループプロセスなんかに比べてあんまりおもしろい会話じゃないなあと思う。
英語で言うSmall talk、つまり雑談は外国人の私にはむずかしいのかな。たしかに日本語だととりあえず会話に入り込むことはできる。でもそれがかえって負担に感じるときもある。
会話から外れているほうがかえっていいということもある。気持ちが休まるし、家族が元気そうだから別に何か言う必要もない。
私にとって、会話が本当に成立するのはごくたまに、条件が整ったときだけのようだ。
でも妻子三人のしゃべっていることに今一つ興味が持ちにくいし、私が何か言ったりきいたりしてもすぐに会話からはじき出される感じがする。
自分の中でも、たとえば先日たくさん参加したグループプロセスなんかに比べてあんまりおもしろい会話じゃないなあと思う。
英語で言うSmall talk、つまり雑談は外国人の私にはむずかしいのかな。たしかに日本語だととりあえず会話に入り込むことはできる。でもそれがかえって負担に感じるときもある。
会話から外れているほうがかえっていいということもある。気持ちが休まるし、家族が元気そうだから別に何か言う必要もない。
私にとって、会話が本当に成立するのはごくたまに、条件が整ったときだけのようだ。
MACFOCの先生ロールと学生ロールのプロセス: 3/15/08
MACFOCの先生側と学生側に分かれたロールプレーというのもあった。
こういうロールプレー(といっても実際の状況だからパーソナルな要素が強い)はコホート1でもあったので、懐かしい思いで眺めていた。
学生の側からは、学生たちがこのプログラムに入る前に持っていた人生経験をもっと尊重してほしいという意見が出た。
先生の側からは、たとえばグループプロセスのソーティングなどはまだ今一つ最適な形になっていないので、改良の必要があることを認めたり、コホート1のときよりも対話が成立している感じになった。
ロールプレーだから遊びといえば遊びだが、このプログラム自体が成熟してきた証というふうに私には見えた。
こういうロールプレー(といっても実際の状況だからパーソナルな要素が強い)はコホート1でもあったので、懐かしい思いで眺めていた。
学生の側からは、学生たちがこのプログラムに入る前に持っていた人生経験をもっと尊重してほしいという意見が出た。
先生の側からは、たとえばグループプロセスのソーティングなどはまだ今一つ最適な形になっていないので、改良の必要があることを認めたり、コホート1のときよりも対話が成立している感じになった。
ロールプレーだから遊びといえば遊びだが、このプログラム自体が成熟してきた証というふうに私には見えた。
人種差別をテーマにしたグループプロセス
あらかじめ人種差別をテーマにしようということでやったグループプロセスもあった。
このときは白人の男性が「白人のEldership」を目指すと発言したことでグループがまとまった感があったが、よく見ると彼の周りに集まったのは白人だけで、非白人はすべて外側に残った。
意識せずに人々の配置がそうなったということに私は大きな意義を感じだ。
一ついえることは人種差別をテーマにすると白人同士はかなりはっきりしたイメージを共有していて、非白人のほうはそれに付き合いきれないというところがある。
グループの後のディスカッションで白人の女性が「有色人種の何とかさんがしゃべっているときに他の有色人種の人たちがサポートに行ったらどうかと思った」と発言したのに、ちょっとショックを感じた。
白人から見れば同じ有色人種らしいけどこっちから見るとその何とかさんは日本人ではないのだ。だから何とかさんに感情移入することはむずかしいのだが、白人側から見ると同じように差別されてるんだから互いにサポートできるだろうと思うらしい。
人種問題を語ると白人同士は固まってサポートし合い、非白人はばらばらのままという見方もできると思った。アーニーがディープデモクラシーの本で書いたように、少数派同士はなかなか仲良くできないのだ。
このときは白人の男性が「白人のEldership」を目指すと発言したことでグループがまとまった感があったが、よく見ると彼の周りに集まったのは白人だけで、非白人はすべて外側に残った。
意識せずに人々の配置がそうなったということに私は大きな意義を感じだ。
一ついえることは人種差別をテーマにすると白人同士はかなりはっきりしたイメージを共有していて、非白人のほうはそれに付き合いきれないというところがある。
グループの後のディスカッションで白人の女性が「有色人種の何とかさんがしゃべっているときに他の有色人種の人たちがサポートに行ったらどうかと思った」と発言したのに、ちょっとショックを感じた。
白人から見れば同じ有色人種らしいけどこっちから見るとその何とかさんは日本人ではないのだ。だから何とかさんに感情移入することはむずかしいのだが、白人側から見ると同じように差別されてるんだから互いにサポートできるだろうと思うらしい。
人種問題を語ると白人同士は固まってサポートし合い、非白人はばらばらのままという見方もできると思った。アーニーがディープデモクラシーの本で書いたように、少数派同士はなかなか仲良くできないのだ。
私にとってのグループプロセスの魅力
ここ3日ほどはばかすかグループプロセスに出てたので書く暇なかった。
仲良しのMさんがうちに泊まってコホート2の10日間集中トレーニング(Residency)に通っていたので、行きやすかったということはある。
コホート2は朝と夕方、つまり正規の授業の前後にグループプロセスの練習をするのである。10日間のResidency中になんと15回。私はそのうち半分くらいに出た勘定だ。
いやーとにかく楽しかった。
なんでこんなに楽しいのかなあと考えてみると、グループプロセスでは圧縮した形で人と深い交流ができるからだ。
私は個人的な付き合いというのが苦手である。苦手というよりある畏友の言を借りれば「関係性の筋肉が弱い」のだ。
マラソンランナーみたいにトラック100周分をだーっと走り続けられる人もいれば、私みたいにトラックを一周二周するともう息が上がるというのもいる。私は走ること自体はすごく好きだが、短時間でへたるのだ。
普通にあってお茶を飲むとかいう感じだと、だんだん互いにリラックスして深めの交流ができるかなということには私はへばっていることが多い。
グループプロセスでは特に私が何もしなくても場が深まって、その深みに相乗りして他の参加者といい交流ができることが良くある。。
たとえばロールプレーになったときなんか深い感情のやり取りがすっとできてしまうことがある。
グループプロセスのもう一つの魅力は、自分が何か考えていてどうも先に進めないときにグループにそれを持ち込むと、グループの中のいろいろな相互作用によって自分の考えが深められたり、意外な展開が可能になったりする、ということだ。
葛藤解決の手段としてグループプロセスをするということにはだから私は興味が薄い。
仲良しのMさんがうちに泊まってコホート2の10日間集中トレーニング(Residency)に通っていたので、行きやすかったということはある。
コホート2は朝と夕方、つまり正規の授業の前後にグループプロセスの練習をするのである。10日間のResidency中になんと15回。私はそのうち半分くらいに出た勘定だ。
いやーとにかく楽しかった。
なんでこんなに楽しいのかなあと考えてみると、グループプロセスでは圧縮した形で人と深い交流ができるからだ。
私は個人的な付き合いというのが苦手である。苦手というよりある畏友の言を借りれば「関係性の筋肉が弱い」のだ。
マラソンランナーみたいにトラック100周分をだーっと走り続けられる人もいれば、私みたいにトラックを一周二周するともう息が上がるというのもいる。私は走ること自体はすごく好きだが、短時間でへたるのだ。
普通にあってお茶を飲むとかいう感じだと、だんだん互いにリラックスして深めの交流ができるかなということには私はへばっていることが多い。
グループプロセスでは特に私が何もしなくても場が深まって、その深みに相乗りして他の参加者といい交流ができることが良くある。。
たとえばロールプレーになったときなんか深い感情のやり取りがすっとできてしまうことがある。
グループプロセスのもう一つの魅力は、自分が何か考えていてどうも先に進めないときにグループにそれを持ち込むと、グループの中のいろいろな相互作用によって自分の考えが深められたり、意外な展開が可能になったりする、ということだ。
葛藤解決の手段としてグループプロセスをするということにはだから私は興味が薄い。
コミュニティ新旧
昔風のコミュニティというのは、だいたい長幼序ありでみんな一番下の地位から年を取るとともに上に登っていくから、上の人は下の人の気持ちがわかる、自分で経験しているから。
今でもうちの禅センターなんかはそういうシステムになっている。雲水は最初一番下の働き手で、そこからだんだん登っていく。だから一番上の先生でも炊事とか食器の片付けとかすいすいとやる。
でも今の社会でそういうコミュニティを持つということはむずかしい。下から上に登っていくということができる安定したコミュニティがみつかりにくいからだ。
たとえば私の行ってるUU教会のMinisterと子供の教育の責任者は両方とも外から来た人で、正式の訓練は受けているがこの教会の歴史を生きた人ではない。だからメンバーの気持ちはあんまりわからなくて、自分が受けた訓練に基づいて教会を運営しようとする。
彼らの訓練は多くの教会の経験から割り出されたメソッドに基づいているから、それがうちの教会に有効な場合も多いし、実際けっこううまく運営されているのであるが、古くから活発に教会をサポートしてきた人たちがぼろぼろと辞めていくのは切ない。彼らには居場所がなくなってしまうのだ。
今のトップダウンシステムに適応しやすい人たちがどんどん入ってくるからメンバーは増える。だからこれでいいともいえるが、コミュニティという感じからは遠くなっていき、何かの目的のために編成された組織という感じになってきている。
こう書いてみるとなんか奥歯に物が挟まっているみたいで、エッジに来ているのだろうと思う。
後日「コミュニティってなんだ?」でまたこれについて書いてます。
今でもうちの禅センターなんかはそういうシステムになっている。雲水は最初一番下の働き手で、そこからだんだん登っていく。だから一番上の先生でも炊事とか食器の片付けとかすいすいとやる。
でも今の社会でそういうコミュニティを持つということはむずかしい。下から上に登っていくということができる安定したコミュニティがみつかりにくいからだ。
たとえば私の行ってるUU教会のMinisterと子供の教育の責任者は両方とも外から来た人で、正式の訓練は受けているがこの教会の歴史を生きた人ではない。だからメンバーの気持ちはあんまりわからなくて、自分が受けた訓練に基づいて教会を運営しようとする。
彼らの訓練は多くの教会の経験から割り出されたメソッドに基づいているから、それがうちの教会に有効な場合も多いし、実際けっこううまく運営されているのであるが、古くから活発に教会をサポートしてきた人たちがぼろぼろと辞めていくのは切ない。彼らには居場所がなくなってしまうのだ。
今のトップダウンシステムに適応しやすい人たちがどんどん入ってくるからメンバーは増える。だからこれでいいともいえるが、コミュニティという感じからは遠くなっていき、何かの目的のために編成された組織という感じになってきている。
こう書いてみるとなんか奥歯に物が挟まっているみたいで、エッジに来ているのだろうと思う。
後日「コミュニティってなんだ?」でまたこれについて書いてます。
社会へのアレルギーによるホームレス?
主にMACFOCのコホート2の学生たちによるホームレスに関するグループプロセスに参加。
内容はパーソナルな部分もあって言及しにくいが、私自身の発見としては自分の住んでいる社会システムへのアレルギー反応みたいなものがあるのかなということだ。
小麦にアレルギーのある人はアメリカの一般の食生活では病気になってしまう。昔は小麦のアレルギーがあるなんてことも知られていなかったから、そういう人は結局なんとなく不健康になって病人として生活することになっただろう。
なんとなく食べ物のせいだと本人はわかっていても、大多数の人々がなんともない小麦が自分に対してだけは毒になるなんていうことをはっきり意識することはむずかしかったに違いない。
自分の身体を守ろうと、怪しい食べ物を食べることを拒否し始めると、みんなが食べるものを何故食べないのか、君には何か間違ったところがあるとか言われだす。
こういう人は大勢に従って身を滅ぼすか、自分の感覚をつらぬきとおして偏屈な変わり者としてほそぼそと生きるかだろう。
今では小麦アレルギーというのはわかっているからずっと話が簡単になっているが、これが身体のアレルギーでなくてもっと心理的な反応だったら話は非常にむずかしくなる。
現代社会の生活で我々が行わなければならない心理操作のうちのどれかがその人にどうしても合わなくて、心理的健康が損なわれていくというのはありそうな話だ。
そういう人はいわゆるまっとうな社会生活から降りてホームレスになったり、引きこもりになったりするが、社会生活のうちのどの部分に対して反応しているのかという知識が本人にも社会にもないからいわれのない非難を受け、本人もそれを内在化して苦しむ。
なんか書いてるだけで身体の中がざわざわしてくる。
内容はパーソナルな部分もあって言及しにくいが、私自身の発見としては自分の住んでいる社会システムへのアレルギー反応みたいなものがあるのかなということだ。
小麦にアレルギーのある人はアメリカの一般の食生活では病気になってしまう。昔は小麦のアレルギーがあるなんてことも知られていなかったから、そういう人は結局なんとなく不健康になって病人として生活することになっただろう。
なんとなく食べ物のせいだと本人はわかっていても、大多数の人々がなんともない小麦が自分に対してだけは毒になるなんていうことをはっきり意識することはむずかしかったに違いない。
自分の身体を守ろうと、怪しい食べ物を食べることを拒否し始めると、みんなが食べるものを何故食べないのか、君には何か間違ったところがあるとか言われだす。
こういう人は大勢に従って身を滅ぼすか、自分の感覚をつらぬきとおして偏屈な変わり者としてほそぼそと生きるかだろう。
今では小麦アレルギーというのはわかっているからずっと話が簡単になっているが、これが身体のアレルギーでなくてもっと心理的な反応だったら話は非常にむずかしくなる。
現代社会の生活で我々が行わなければならない心理操作のうちのどれかがその人にどうしても合わなくて、心理的健康が損なわれていくというのはありそうな話だ。
そういう人はいわゆるまっとうな社会生活から降りてホームレスになったり、引きこもりになったりするが、社会生活のうちのどの部分に対して反応しているのかという知識が本人にも社会にもないからいわれのない非難を受け、本人もそれを内在化して苦しむ。
なんか書いてるだけで身体の中がざわざわしてくる。
宝捜しのためのプロセスワーク
クライエントとしてセラピストに会いに行くとたいてい何を求めているのか聞かれる。
そこでもう私はしらけて、セラピストに合わせ始める。MACFでは3年間ずっとそれの連続だったような気がする。
私は何かが欲しいのではない。問題があってそれを解決したいのではない。
私がプロセスワークに期待するのは日常の人間関係の中に潜んでいる宝物を見つけるためのツールなのだ。
悩みがあったらそれを味わいたい。人間的な悩みがある間は意識が人間に近くてそういった宝物もすぐ近くにあるような気がするから。
そこでもう私はしらけて、セラピストに合わせ始める。MACFでは3年間ずっとそれの連続だったような気がする。
私は何かが欲しいのではない。問題があってそれを解決したいのではない。
私がプロセスワークに期待するのは日常の人間関係の中に潜んでいる宝物を見つけるためのツールなのだ。
悩みがあったらそれを味わいたい。人間的な悩みがある間は意識が人間に近くてそういった宝物もすぐ近くにあるような気がするから。
Council of All Beingsのグループプロセス
また別のグループプロセスの練習に参加。
これはCouncil of All Beingsというジョアンナ・メイシーたちが発案した儀式というかエクササイズをプロセスワークの文脈でやってみようという野心的な試みだった。
内と外のサークルを作り、外側のサークルの人がそれぞれなりたい動物、植物、鉱物あるいは自然現象として内側の人間役の人たちに向かって発言するというのがCABの基本らしい。
私は天道虫になったのだが、実際に外のサークルから内のサークルへの発言が始まるときには人間役になった。そして、CABの原則を破って人間として発言した。
CABでは人間はただ聞くだけで発言はしないことになっているらしいが、これはプロセスワークなんだし、ということで発言した。
これは「内向ロールは常にゴースト 」と「静寂としゃべりが分極化したグループプロセス」で言ったことにつながるが、物言わぬ動植物などのロールとしてしゃべるよりは人間としてしゃべる方が自己一致できると思った。
といってもこの場合は動植物とか風とか砂丘とかのロールを取った人たちとやりとりすることになるので言葉だとどうしても人間同士が言い合っているのに近くなる。
でもたとえば砂丘や雑草のロールは動きや姿勢での表現を始めたのでわりとしっくりした。
動物からの発言は「君たち人間は私たち動物を殺したり環境を汚染したりしてひどいじゃないか」という感じのものが多くて、私から見るとそれは動物が人間のように考えるならそうだろうけど、私がたとえば虫から受ける感じはそういった非難とはまったく違う。
虫の立場からしゃべるという試みもしてみたいがまだエッジがあってできない。
これはCouncil of All Beingsというジョアンナ・メイシーたちが発案した儀式というかエクササイズをプロセスワークの文脈でやってみようという野心的な試みだった。
内と外のサークルを作り、外側のサークルの人がそれぞれなりたい動物、植物、鉱物あるいは自然現象として内側の人間役の人たちに向かって発言するというのがCABの基本らしい。
私は天道虫になったのだが、実際に外のサークルから内のサークルへの発言が始まるときには人間役になった。そして、CABの原則を破って人間として発言した。
CABでは人間はただ聞くだけで発言はしないことになっているらしいが、これはプロセスワークなんだし、ということで発言した。
これは「内向ロールは常にゴースト 」と「静寂としゃべりが分極化したグループプロセス」で言ったことにつながるが、物言わぬ動植物などのロールとしてしゃべるよりは人間としてしゃべる方が自己一致できると思った。
といってもこの場合は動植物とか風とか砂丘とかのロールを取った人たちとやりとりすることになるので言葉だとどうしても人間同士が言い合っているのに近くなる。
でもたとえば砂丘や雑草のロールは動きや姿勢での表現を始めたのでわりとしっくりした。
動物からの発言は「君たち人間は私たち動物を殺したり環境を汚染したりしてひどいじゃないか」という感じのものが多くて、私から見るとそれは動物が人間のように考えるならそうだろうけど、私がたとえば虫から受ける感じはそういった非難とはまったく違う。
虫の立場からしゃべるという試みもしてみたいがまだエッジがあってできない。
静寂としゃべりが分極化したグループプロセス
MACFOCのコホート2のグループプロセスの練習に参加。
ファシリテータがまず最初にしばらく静かに瞑想して、何が心の中に起きてくるか見守ってくださいと言ったら、ものの1分くらいでくすくす笑い出す人がいて、その後他にも笑いが広がって収拾がつかなくなった。
笑いだからポジティブでいいものだとは私は思わない。このときの笑いは攻撃性を内包していたと思う。でもファシリテータも含めてグループはあまりその攻撃の部分をピックアップせず、その結果プロセスワークの理論どおりに笑いのプロセスが何度もリサイクルしたと見えた。
昨日書いたこととつながることだが、静寂としゃべりという分極化は不可能で、静寂をサポートするおしゃべりとしゃべりをサポートするおしゃべりの間の分極化が起こるだけである。静寂そのものは極になりえない。
沈黙の圧制もあるし、しゃべりの圧制もある。プロセスワークでは一般に沈黙の圧制のほうにより敏感だなあ。なんというか言葉にすることでなんとかなるという基本的な信頼感があるみたいだ。
ここでは私は静寂を求める側に組している。それを意識した上でもっと言えば、だいたいファシリテータがこうしましょうと言ったことを1分もしないで笑い出すなんて、と腹を立てている自分がいる。
それと、ファシリテータに真っ向から楯突くということは自分がある程度リーダーシップを取る覚悟がないと場を危険にしてしまう。ファシリテータがしばらく静かに、と言ったすぐ後で参加者が笑えば、ファシリテータの権力は一時的に消失し、笑った人がリーダーになる。だからそのことを意識できていないと場にリーダーがいなくなって危険なのだ。
ファシリテータがまず最初にしばらく静かに瞑想して、何が心の中に起きてくるか見守ってくださいと言ったら、ものの1分くらいでくすくす笑い出す人がいて、その後他にも笑いが広がって収拾がつかなくなった。
笑いだからポジティブでいいものだとは私は思わない。このときの笑いは攻撃性を内包していたと思う。でもファシリテータも含めてグループはあまりその攻撃の部分をピックアップせず、その結果プロセスワークの理論どおりに笑いのプロセスが何度もリサイクルしたと見えた。
昨日書いたこととつながることだが、静寂としゃべりという分極化は不可能で、静寂をサポートするおしゃべりとしゃべりをサポートするおしゃべりの間の分極化が起こるだけである。静寂そのものは極になりえない。
沈黙の圧制もあるし、しゃべりの圧制もある。プロセスワークでは一般に沈黙の圧制のほうにより敏感だなあ。なんというか言葉にすることでなんとかなるという基本的な信頼感があるみたいだ。
ここでは私は静寂を求める側に組している。それを意識した上でもっと言えば、だいたいファシリテータがこうしましょうと言ったことを1分もしないで笑い出すなんて、と腹を立てている自分がいる。
それと、ファシリテータに真っ向から楯突くということは自分がある程度リーダーシップを取る覚悟がないと場を危険にしてしまう。ファシリテータがしばらく静かに、と言ったすぐ後で参加者が笑えば、ファシリテータの権力は一時的に消失し、笑った人がリーダーになる。だからそのことを意識できていないと場にリーダーがいなくなって危険なのだ。
内向ロールは常にゴースト
内向人間のサバイバルガイドということを昨日言ったが、よく考えてみると、内向人間からの発言というのは妙なコンセプトである。発言するという行為自体が外向的なことなのだから。
内向人間について語る場合は、外向人間が自分の知っている内向人間について語るというやり方でしか自己一致した言い方ができない。
黙っていた人がしゃべり始めたときにはそこに内向的な匂いが残っているが、しゃべりが軌道に乗ってしまえばもう外向人間に変身している。
誰にだって内向ロールは備わっているし、もちろん外向ロールも備わっている。どっちが様になりやすいかは人によって違うだろう。
しゃべたり書いたりしているときは外向ロールと同一化しているわけだから、内向ロールのことは見えにくいことを考慮に入れなければならない。
「一人にしておいてくれ」というのはだから実に微妙な発言である。
「自分は話し続けたいけれども元気がなくなってきているから、ちょっと休みたい」くらいは自己一致して言えるかもしれない。
内向ロールは常にゴーストなのだ。
内向人間について語る場合は、外向人間が自分の知っている内向人間について語るというやり方でしか自己一致した言い方ができない。
黙っていた人がしゃべり始めたときにはそこに内向的な匂いが残っているが、しゃべりが軌道に乗ってしまえばもう外向人間に変身している。
誰にだって内向ロールは備わっているし、もちろん外向ロールも備わっている。どっちが様になりやすいかは人によって違うだろう。
しゃべたり書いたりしているときは外向ロールと同一化しているわけだから、内向ロールのことは見えにくいことを考慮に入れなければならない。
「一人にしておいてくれ」というのはだから実に微妙な発言である。
「自分は話し続けたいけれども元気がなくなってきているから、ちょっと休みたい」くらいは自己一致して言えるかもしれない。
内向ロールは常にゴーストなのだ。
「孤独の哲学」ジョン・クーパー・ポウイス著(みすず書房)
私のヒーローの一人であるジョン・クーパー・ポウイスは「孤独の哲学」(みすず書房)という、内向人間のサバイバルガイドみたいな本を書いている。1932年著、彼は60歳だった。
この世は外向型のためにできている。だから内向型の人でも無理に外向よりの生き方をしようとして、しかしそれではやっぱりあまりハッピーではないということになる。
ポウイスはだからあえて内向的な生き方を通すための知恵をこの本で紹介している。
初めて読んだのは30年近く前、長年の間何度も読み返し、拾い読みした。英語の原著もよく読んだ。
この本ではないが、ポウイスの友人が彼のことを「幸せな内向型という極めて稀な存在」と形容している。「内向型は外向的な世の中におもしろがられるということはあるが、たいてい本人は不幸である。でもジョンは内向型の幸せな生き方を見出した。」たしかこんなことを書いていた。
この本から触発されたものを表現したいなあと思う。
この世は外向型のためにできている。だから内向型の人でも無理に外向よりの生き方をしようとして、しかしそれではやっぱりあまりハッピーではないということになる。
ポウイスはだからあえて内向的な生き方を通すための知恵をこの本で紹介している。
初めて読んだのは30年近く前、長年の間何度も読み返し、拾い読みした。英語の原著もよく読んだ。
この本ではないが、ポウイスの友人が彼のことを「幸せな内向型という極めて稀な存在」と形容している。「内向型は外向的な世の中におもしろがられるということはあるが、たいてい本人は不幸である。でもジョンは内向型の幸せな生き方を見出した。」たしかこんなことを書いていた。
この本から触発されたものを表現したいなあと思う。




