プロセスワーク関連のおぼえがき

2007年6月にプロセスワークのMACFOC(葛藤解決・組織改革修士課程)の一期生としてめでたく卒業しました。これまでの学びを日本語のおぼえがきという形で書くとともに、半年を経た今、ただ自分の思考や経験を書き付ける日記としても機能しています。

滅私奉公と自我確立 12/25/08

非自我ロールということを昨日書いた後気づいたのだが、実は自我主張とは反対の非自我的な、あるいは滅私奉公的なロールはつい最近まで非常に強かった。

滅私奉公というのは戦前戦中の日本でよく言われたことだ。アメリカみたいな国でも、数十年前までは、女性は「キリストのまねび」といって、さんざん苦しめられて十字架上で死んだイエス・キリストのような苦労を進んでするべきだという道徳感が強かった。

女性解放運動の激しさは一つにはこの極端な犠牲精神からの解放を求めたものだといえるだろう。

アメリカや日本の女性がたとえばサウジアラビアの女性の受けている差別的扱いに強い憤懣を感じるのは、つい最近まで日米でもそういう状態が普通のこととしてまかり通っていて、とても人事ではないからだと思う。(参考:『日本人と人種差別』)

前にも書いたが(『復讐の義務と命の意味』)、部族共同体では個人は部族のために死ぬことを厭わなかったと私は考えている。なぜなら部族は永遠であり、個人はどうしたって数十年で死ぬからだ。だから部族と同一化している方が心理的な安定度が高い。

この心理的な同一化が揺るがない限り、部族のメンバーは喜んで自我の満足を投げ出して部族のために苦労し、戦い、死ぬ。

これは戦後の日本では強く批判された生き方なので、私のような戦後数年で生まれた者には理解しにくいが、たとえば軍隊というものはある程度こういう精神がないと機能しないだろう。

アメリカには、アメリカを守るために命懸けで戦うことに生きがいを感じる若者がたしかにいる。

日本でもあの忌まわしいサリン事件のときに地下鉄の職員の何人かは死を覚悟して職務を遂行したと言われている。

以下に近代が自我の時代だと言っても、自我そのものが実は部族(国、党、民族)との心理的同一化という土壌から育ってきた有機体であり、その土壌が完全に失われてしまえば自我も養分を得られなくなって枯れていくだろう。

したがって近代の歴史は自我確立の方向にある程度進むと大崩壊が起こって全体主義的になり、全体主義が確立してくるとまた自我確立の動きが強まるという振り子運動を繰り返している。(根拠なしでこういうことを言ってもいいのかなと思うが、でもこれはかなり当たっていると思う。)

ヴァージニア工科大学大量射殺時件の犯人へのメール 12/22/08

ヴァージニア工科大学の大量射殺事件の犯人であったチョウ(C)と教授たちの間のメールのやりとりが大学新聞から公開された。

私は主にオレゴンの新聞に引用されたところしか読んでないが、ある教授が「とにかく何を考えているのか言ってくれ、そうでないと手助けのしようがない」と書いている。

これに感じるところがあった。

昨日のパーティでのサバイバルについてのエントリーで書いたが、本人にある程度の気持ちの落ち着きができてくるまではいくら親切に話を聞こうとしてもだめじゃないかなと思う。

いくら親切でも教授たちは自分達の物語に合った応答しか聞くことができないし、Cにとってそういう応答が現実的でないことは明らかだっただろう。

CはCで自分の苦境に自分でいろいろな物語をつけて周囲への憎しみを増幅してしまったようだ。

どっちも物語を忘れてただ居心地の悪さを静かに味わっていたら何か突破口が開けたのじゃないか。

そうは言っても大学なんだから学生として、教授としての役目というものがあり、ただ静観することはできないという声がありそうだ。

これは当然の問いだが、実は人というのはどんなところにいても「ここはXXXXをするための場所だよ、君は場違いだ」と言われる可能性がある。

そういうときはその声を尊重するとともに、「でも場違いの僕が今ここにいるということにも意味があると思います」と指摘できると思う。

場違いだと言われるたびに別の場所に移ったり、その場に合わせた人間になろうとしたりするのは実に消耗だと自分の経験から言える。

(この項はドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私」という本が参考になりそうだ。好意で近付いてくる人でもドナ独特の距離感がわからなくてドナを遠ざけてしまうことになるというところや、彼女がしばしばものすごい暴力をふるったことなど。)

パーティでのサバイバル 12/21/08

友人の家のシングアロングに行った。シングアロングというのはまあ集まって歌の本を見ながら知ってる歌を歌いましょう、という感じ。今回はクリスマスソング中心。

でもこのメンツは初めてであるせいか最初は所在なくて困った。

この友人とは最近会ってなくて(というか最近はほとんど誰にも会わない)、なんとなく近寄りがたいし、他の人達は全然知らない。

でもこのごろではこういうときは無理に人に話しかけたりしないでじっと待っている方がいいという対応策がある程度確立している。今日もそれに従った。

予想どおり、後半になるとふと誰かと話しているという状況がぽつぽつ出てきて、歌の方も大きな声で歌うようになった。気持ち的にも楽しめるようになった。

私の場合はこの「ふと」というのが大事で、大決心で何かやるというのは肩に力が入るせいかうまくいったためしがない。

実はパーティは今日二回目だった。まず昼から近所の人達とのパーティがあったのだ。このときも最初は話の輪に入れず、だいぶんたってから気楽になって話し始めた。でもこのときは最初に距離感があったときにあせりの気持ちが強くて消耗した。

近所の人だからもっと始めからもっと気楽に話せるかと思ったのが間違いだった。

まず自分の知っている気の置けない人としゃべって調子を出そうとするのはたいてい失敗する。要するにその場に対する拒絶反応が始めはあって、それが自然にゆるんでくるまではたとえつれと話していても妙にぎくしゃくする。

所在ないからといってやたら食べ物に手を出すのも芳しくない。場に慣れるプロセスの進行を遅らせる感じがする。意識的に場にチューニングしながら待つというのが最適なのだろう。

本とか置物とかに注意を向けるのもあまりよくないみたいだ。子供もだめ。とにかく特定のものに注意を集中せず何もやろうとせずに場のエネルギーを意識しているうちにいつかスイッチが入る、そんな感じだ。

なんでこんな面倒な手順を踏まないといけないのかわからないが、人といるときというのはどんなに慣れた相手でも私には要注意のときなのだ。

その代わりというか、一人でいるときは退屈することはあってもやばいというときはない。特になんの娯楽もなくてもぼけっとしているだけで心の調子が回復してくる。

でも調子がいいときはやはりある程度人と接触する方がいい。私だって人間なのだから。

ホリデーシーズンとお盆 12/13/08

アメリカのホリデーシーズンは11月の第四木曜日の感謝祭から12月末のクリスマスまでの一ヶ月間なんとなく気ぜわしい。

多くの家族は感謝祭かクリスマスのどちらかの週に集まる。結婚して外に出た息子や娘が自分の子供達をつれて老父母のところに戻ってくる。あるいは息子か娘の家に兄弟と父母が来る。

ほとんどが核家族という、旧来の定義ではもう家族とは呼べないシステムで生活しているアメリカ人がこのときだけは数日間大家族として生活する。

いわば家族システムの亡霊が年に一週間だけシャバに戻ることを許されるのだ。

そういう意味でこれは先祖の霊を数日間だけ迎えるという日本のお盆に似ていなくもない。

多くの人はこの大家族の亡霊を経験して普段の生活に戻ると兄弟や父母がいかに耐えがたい存在であったかについてこぼす。

たとえば今のアメリカは保守とリベラルが鋭く対立しているが、多くの家族は家族内に保守とリベラルを抱えていて、家族がホリデーシーズンでひさしぶりに出会っても会話のテーマを慎重に選んで不愉快なぶつかりあいを防ごうとする。

個人間の葛藤を包含してなおかつ全体性を保つ機能を家族システムはもう失っている。精神分析やカウンセリングの繁盛はこの喪失の結果である。

家族って本当に死に体なんだけれど、死にきれずにホリデーシーズンに戻ってきたり、イスラムの自爆攻撃という形でアメリカの外側の敵という形で祟ったりしている。

なんで自爆攻撃が家族的なのかというと、家族というのは本来自分が死んでも生き残る大事な存在で、それだからこそ家族の存続のために個人は命を犠牲にして切腹したり自爆したりするのだ。

近年の欧米や日本の普通の人達の生活の中では、自分の命よりも大切な上部組織というのはあまり意識されないから自爆攻撃にショックを受ける。(『復讐の義務と命の意味』を参照。)

ヒューマニズムの内閉性』では人間が人間だけに注目して人間でないものを無視する傾向を内閉的であると批判したが、ヒューマニズムのもう一つの問題点は個人主義的だということだ。個人が自分よりも大きな何かに命を捧げるという重要な志向性がヒューマニズムの視野には入っていない。

個人の命を重視する価値観の致命的な弱点は、個人の命が極めて限られているということだ。現代の欧米や日本では個人が死ぬという事実をひたすら人々の目に晒さないようにしている。

ニュースには戦争や事故や殺人による人命の喪失が常時報道されているが、こうした報道の裏のメッセージは、「こういうひどい事件を避ければ人は死ななくても済むんですよ」というものだ。

我々もチベット仏教みたいに死体が朽ちていくのをじっと眺める修行をした方がいいのかもしれない。

利用する関係と他者としての関係 12/3/08

物との関係性というのをあらためて考えない人でも、物と関係していないわけではもちろんない。

違いがあるとすれば、普通は物を他者として、つまり自分に向き合う主体としては見ないということだ。

製造業は絶えず物を加工して製品を作っている。この場合の物との関係は「利用する関係」だ。

芸術家もマテリアルという物と密接な関係を持って仕事をしている。この場合もやはり物を利用しているのだが、ときにはマテリアルがどういうふうに扱われたがっているのかをアーティストが感じとるということがある。

ミケランジェロが大理石のかたまりの中に埋もれているダビデを見たように。

物を他者として見るとか主体として見るとかいうことはそんなに奇矯なことではない。

何を単なる客体と見て何を主体として見るかというのは対象によって決まるというよりは見る側が勝手に決めることだ。

人間が必ず主体として見られるというわけではない。原爆が投下されたときの広島や長崎の住民は他者としてでなく処理するべき物として見られていたというべきだろう。

何日も一枚の作品を描きつづけてきた画家にとって、キャンバスはもはや単なる客体ではなく、ある性格と歴史を持った何者かとして見えてくるだろう。

プロセスワーク的に言えば、どんな関係でも対象を他者としての主体と見る姿勢と利用する客体として見る姿勢が混在していて、いずれかが一次プロセスなら他方は二次プロセスとして顕現する。

主流派の文化はどんな対象を主体としてみるべきでどんな対象を客体として見るべきかについてのルールを持っている。

あれ? 実は相手を客体として虐待して利用しまくっているような関係(たいていの物との関係がそう)において、その気安さのためにそのうち情が移るという現象がある、という話をしたかったのになんか進路がずれた。

「風とともに去りぬ」でも南部の白人が「北部のやつらは黒人奴隷を解放するとか言ってるけど、俺たちの方が情の通った付き合い方をしてるんだ」とか言うところがある(はず、これは又聞きなのであしからず)。

相手の主体性を尊重しすぎてそもそも関係性が成り立たないという現象もありそうだ。

関係性が本物になるのは、粗暴なことをして相手を傷つけたことに気づいてからであることが多いのではないだろうか? 

人間関係の神格化 11/28/08

先日人間アレルギーということを書いたのは、人と接触することそのものが嫌いじゃないがすると心の調子悪くなるという感じを表現したかったからだ。

昨日はその対策について書いた。どうすれば人間アレルギーを避けつつ人と接触できるかということについて。

今日書きたいのは、人との接触が良いことであるとする価値観が主流になっているということについてだ。

一人で閉じこもっていると変なことを考えだして、やがては犯罪に走ったりするという考えがそれとなく常識として通っている。

人といることによるストレスがたまって爆発して犯罪を犯したと私には見えるようなケースでも識者は「犯人は孤独だった」とか言ってそれですべてが説明できたような顔をする。

カウンセラーやセラピストが、「しばらく人に会わない方がいいでしょう」というアドバイスを与えることはあまりないだろう。

でも人々はありとあらゆる手段を講じて他人との接触を少なくしている。

iPodで音楽に聴き入ることで周囲の人を無視しようとする若者、携帯で話すことで肉体的に近くにいることによるストレスを避ける人々、店員と話したくないので自動販売機でものを買う人々。

さらにインターネットは人に実際に会わないで得られる知識や楽しめる娯楽を極端に拡大した。

このように、現代文明は社交の大事さを強調すると同時に、人と会わなくても用事が済ませられるようにあの手この手のコミュニケーションシステムを開発してきた。

唐突だが、この辺の事情には人間関係の神格化とでも言うべき現代特有の精神的な流れが絡んでいる気がする。

人間関係というのはすばらしいものであり、しかも普通の人間は専門家の助けなしには到底良い人間関係に到達することはできないという思想の枠組みの中に現代の精神分析や心理学は収まっている。

プロセスワークもこの大枠からは外れていないように見える。

私はこの枠組みに揺すぶりをかけたいと思っている。

感情の居所_その3 11/2/08

感情の居所』、『感情の居所 その2』、『遍在するのは思考か感情か』『遍在するのは思考か感情か その2』などで私自身の感情へのアクセスの遅さから発する議論をいくつかしたが、今日禅センターのG先生と話していてなるほどと思ったことがあったので書き付けておく。

つれが自分の気持ちをストレートに出しているときに私が居心地悪くなることについてG先生いわく、「女性は感情を衣装みたいに着ている。そして女性の友達同士ではそうやって感情を見せ合いながら長時間話し合う。でも男性の感情は深く秘められていることが多い。だからその深みまで潜って感情を表現することは心理的な負担になる。そのことを説明するといい。そうでないと彼女はその件についてあなたが感情を持っていないと判断してしまう可能性がある。」

これを聞いてふと思い出したのは、私があれこれの考え方を軽く話していると女性が怒る場合があるということ。私にとっては思考が衣装のようなもので、それについては気軽に話せるのだが、思考が心の奥深く秘められている人だってあるわけだ。それを衣装みたいにすぐ見せろと言われればそりゃ怒るだろう。

私の場合、好き嫌いというのは表面にあまり出ないが深いところで大きく人生を左右しているところがある。しかし何が正しいかとかいうことは言葉の使いようでどうにでも変えてしまえるような気がする。

禅センターにしろ、UU教会にしろ、プロセスワークにしろ、私はこれらのコミュニティのパラダイムとか信条とかにはあまり興味がない。実際にいる人やそこで起こっていることになんとなく惹かれるから行くのだ。

どうして行くかということは感情から来ていることだから誰とも話し合わない。だからコミュニティのメンバーの人たちと今ひとつコミュニケーションが取れないところがある。

私にとって「好きだ」というのは「これこれこういう理由で」というふうに分解できない感情だ。いや、思考はお手の物だからいくらでも理由を考えることは出来るが、内心全部うそだと思っているということだ。

「大事なことは結局のところ言葉では表せない」というのは大乗仏教の革新的なところだったと思うが、秘められた感情によって人々が結ばれる(宗教の英語は結ぶという意味)ということなのかもしれない。

これはもう脱線だが、政治的な集団は秘められた思考によって結束しているといえるかも。たとえば人情味豊かなロシア人が共産主義という思考のまわりに結束したように。

恥じらい 7/19/08

アメリカに住んではや22年、「恥じらい」という言葉がだんだん遠のいていく。もっともこれは日本に住んでいてもあまり変わらないかもしれないが。

私は90%までは内気である。そしてたまにえらく外向的に話し出して止まらなくなったりもする。外向的な面は未成熟なので歯止めが利かないのだ。

ふつうはパーティなんかでも間が持たない。今日も結婚式に行ったが話す相手もなく、残りたがるつれを息子と二人で押し切って帰る形になった。

それはともかく、私が日本にいたころは別に内気だからといってビョーキ扱いされることはなかった。

アメリカではshy(内気)は立派な病気であって、治さなければいけないものだというのが一般常識みたいだ。

青少年が不慮の事故などで死ぬと「あの子はoutgoing(外向的)だった」といって惜しまれることが多く、乱射事件の犯人は「内気だった」と言われることが多い。

内気というのは「何を考えているのかわからない」、「気持ちを閉じているから不気味」といった見方をされやすい。私だって誰かがなかなか気持ちをはっきり表現しなかったらいらつくからこれはある程度わかる。

でも恥じらいがいいことだとされる文化もあるんだよなあ、と思う。

そうして、始めにも書いたが恥じらいという感じが今ひとつぴんとこなくなっている自分の現状がちょっと悲しい。

いや、恥らう感じがないということではない。ただ恥じらいということに対して否定的な見方をしがちになっている自分が悲しいのだ。

もっとも、言葉で白黒をはっきりさせようとしたら恥じらいを肯定的に見ることはむずかしい。

この辺は「物との関係性」を大事にしたい私としては注意すべきところだ。仏教で言うところの無情のもの、つまり思考や感情を欠くと見られている石とか木とかいうものから何かを感じ取ることと、恥じらいへの肯定的な姿勢とは密接に結びついているだろうから。

独立記念日のバーベキュー 7/4/08

このところ一際引きこもり気味でしかも翻訳の急ぎの仕事をしていて独居モードが強いのに、独立記念日のバーベキューパーティに行かされた。

始めのうちはとにかく居所がなくて困った。人と話そうとしてもすぐ途切れてしまうし、誰かが将来性のある仕事をしているとか言うのを聞くと将来などというものが考えられない我が身がとても小さく感じられたりする。

そこでふと、ああそうか、この劣等感は自分だけじゃなくてこの場に漂っている雰囲気なんだなと思ったら気持ちがやや自由になった。

その後はただおとなしく座っていたら義父がとなりに腰を下ろして、自然にぼそぼそと会話が始まり、いつのまにか娘と息子が前に座って四人での会話になった。

実は明日から一家で10日間コロラドに行く。私は特にすることもないのだがつれが一家で行きたいというのでしばし抵抗した後で折れたのだ。

向こうではいろいろかつての知り合いに会うことになるので、今日の経験が役立ちそうだ。いやな感じは自分だけのものだと考えないこと、他人についても言動が本人だけに属するものではなくて場のエネルギーを表現しているのだと見るべきなのだろう。

多分これはうれしい感じにも適用できるだろう。むしろそっちの方が重要かもしれない。いやな感じは自分で持っているよりも場に返した方が楽だからそう執着しないが、いい感じは自分のものとしてとっておきたいだろうから。

こういうプロセスワーク的な考え方は物理学で言えば波動説だ。個人中心の見方は粒子説。

人のいるところに空虚を見る: 5/14/08

Tabor山参りは今日で四日め。バードウォッチングに来ている人がけっこういる。一人に話しかけてみたら、ふくろうの幼鳥がいるのだそうだ。

毎朝じっくりと木々を見ていると、自分の視線がちょっと変わってくるのがわかる。緊張が緩んでくる。ゆったりとした視線になる。

自然食品屋さんのレジでお金を払うときに、ふとレジの人と周りの空間の関係が逆転しているのを感じた。人のいるあたりが空虚で、空間の方に意図がつまっている。

この感じのままレジの人に対していると、普段とは違った軽い感じがする。

私は人の顔をよく憶えていると昨日書いたが、よく憶えているだけでなくてかすかな表情の変化なども見ている。普段はそれで情報過剰になり、感覚飽和で却って鈍感になるということがあるみたいだ。

人は(空間的、時間的に)その周囲にある想いを言葉や表情にする受信機プラス表示器のようなものなのかもしれない。いや、人がこうであるということが重要なのではなくて、こうだと思ってみたらどうなるかということが重要なのだ。

人の中に感情や意図が詰まっていると考えるのは西欧近代の特徴であって、たとえば古代ギリシャでは重要な意図を持つのは神であって人間ではなかった。

夏目漱石は、日本ではつい江戸時代まで文学に出てくる人間に近代でいうような性格というようなものはなく、みんなぼーっと似たようなものだったと書いている。

辻邦生は「小説への序章」の中で、性格を持つ人間というものを書く伝統は19世紀で頂点に達し、20世紀には退潮ぎみになったと書いている。20世紀になると小説の登場人物の性格はあまりはっきりしなくなってきて、ついにはムージルの「特性のない男」という小説が出てきたりする。

それはともかく、人と対しているときにもろに顔を見ると私のように顔認知の発達した者は気づきのほとんどをそっちに取られてしまう。周りの空間の雰囲気や、時間的な残り香がその人を通じて表れていると思って、その人を受信機や受話器のようなものとしてみる方がいいコミュニケーションになるだろうという予感がする。

組織盲: 5/13/08

相貌失認(prosopagnosia)というのは人の顔を憶えられないという特殊な症状らしい。毎日会っている娘や夫の顔もだめで娘と町で出くわしたりしても服装や髪型でわからないと娘だとわからないという女性について日曜の地方新聞で記事が書かれていた。

それ以外はちゃんと社会的に仕事もしているごく普通の人であるよし。英語ではProsopagnosiaという硬い言い方の他にface blind(顔盲)という言い方もあるという。

私はむしろその反対で人の顔をよく憶える方だ。最近、数年前に会って話した人の顔を憶えていなくて大変失礼なことになった経験をしたが、そういうのは例外で、名前は忘れても顔はよく憶えていることが多い。

でも、この女性のケースは特に脳障害もなくてただ先天的に顔が憶えられないということを聞いてふと、私の場合は先天的に組織盲かなと思った。

なんというか組織と自分との関係性というものが見えない。なんとなく子供のころから自分には周りの人々を追いたてて活動へと向かわせる何かが欠けていると感じていた。

研究室にいるときに私が自分の属している学会のために一肌脱ぐ気はないのかと先生に聞かれて「ありません」と答える他なくて、困ったこともあった。

陸上部のときにリレーが楽しみという先輩の言葉を聞いて理解できなかったのも思い出す。

競争意識というのも欠けてはいないがあまりない。競争というのもなんらかの組織に一緒に属しているという感覚があって始めて成り立つ意識である。競争という概念は共通のルールとか目標といったものが共有されていないと成立しないものだ。

20代のころから、組織の中で働くのは無理だと思っていた。他の仲間と競争したり、組織のために貢献することに喜びを見出すという感覚がないので、組織の中に埋もれるとどんどんさぼってしまう。

だから働かないとすぐに飯が食えなくなるフリーランスの翻訳は私にとってちょうどいい仕事だった。

私だって同じ人達と同じところで何度も会っているとおぼろげに心地よさを感じるが、しかしその組織を代表して何かするとか、組織の運営のために時間を割くとかいうことはぴんとこない。

ここ数年はいろいろ組織への参画を試み、MACFACはそのピークだったと思うが、その後でその辺の筋肉を緩めたら後はもう元の木阿弥である。

でも少なくとも、組織への参画のために残りそんなに多くもない人生を浪費することはないという認識は得られたようだ。

組織への自然な帰属感に欠けるということは寂しいことではあるが、その代わり林や草むらの中でまわりの木や草や岩や虫の発する、私がそこにいることへの喜びのようなものは気づいてさえいればいつでも感じられる。

人の組織への帰属感が強ければそういう感覚は弱くなるのではないだろうか。経験がないのでわからないが。

復讐の義務と命の意味: 5/8/08

中東紛争を始めとして、世界各地の長期的な紛争では復讐が大きなテーマになっているようだ。

親族を殺されたら復讐する。それは部族的な文化の中では選択肢ではなくて義務だ。それを怠れば男として認められなくなる。

工業文明、消費文化の個人主義的空気の中で育った私には復讐心というのは時代遅れで有害に見える。日本でもアメリカでも家族が殺されたからといって復讐すれば刑務所行きだし、大抵の人はそんなことはしない。

でも復讐の義務は多分そんな愚かなプライドだけの問題ではないのだ。部族的な意識では個人ではなく部族が主体なのだ。個人については私が自分の腕や足について持つのと同じような意識を持っているのだと思う。

個人主義の人間が瞑想やヨガや精神世界系の修行で一時的にでも実現しようとしている「自分より大きなものとの一体感」は部族人間にとっては常態なのだと私は思っている。

消費文化とそれに伴う個人主義が世界中に浸透しつつあるが、部族主義からの抵抗も強い。消費文化があたえてくれる便利さには逆らいがたいが、部族との一体感を失って根無しの個人になるという代価は大きい。部族は理論的には永遠の命を持つのに、個人はいくら医療が発達しても数十年しか持たなくて、その後は真っ暗闇だからだ。

復讐するのは、部族の成員を殺した者は部族そのものを破壊しようとしていると解釈されるからだ。つまり復讐は部族の永遠の命を保証するための行為だ。これは絶対的に限られた個人の命をちょっとだけ伸ばすだけの行為と比べてはるかに格が上だ。

個人主義化したキリスト教や仏教でも全ての人々との一体感を言うが、それはもうそういった一体感を感じなくなった人々が抽象的な概念として言っているような気がする。実感がないからすぐに「全ての人々」に一体感の範囲を広げられるのだと思う。

ともあれ、復讐という一見愚かな行為の中には部族の永遠の命を守るというとんでもなく崇高な意味が隠されているのではないかと思うようになってきた。

引用先: 『ホリデーシーズンとお盆

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