プロセスワーク関連のおぼえがき

2007年6月にプロセスワークのMACFOC(葛藤解決・組織改革修士課程)の一期生としてめでたく卒業しました。これまでの学びを日本語のおぼえがきという形で書くとともに、半年を経た今、ただ自分の思考や経験を書き付ける日記としても機能しています。

格差是正よりも相互利益 1/6/09

タイトルのとおりで他に言い足すこともないような気がするが、最近ときどき書いているようにプロセスワークのランク理論を使ってランク差を上手に扱うことで高ランク側にも低ランク側にも利益になるような関係性に向かっていけるんじゃないかなと思う。

現在のパレスチナの場合にこのアプローチをあてはめれば、現在のところアメリカのサポートにより国際政治力学的にパレスチナ人よりもずっと力のあるイスラエルの高ランクを認め、その上で高ランクに伴う行政上の責任を担ってもらうということだ。

地政学的にはパレスチナ人、というかアラブ側にランクがある。地元の利である。

互いにそういうランクを明示的にテーブルの上に出して交渉する方が、独立とか権利とかの建前を押し立てて強引にぶつかりあうよりも生産的だ。

民主主義的な平等価値観に基づくアプローチというのは実際に大きな格差のある状況では空論に終わってしまうと思う。

特に二つの異なる文化が接触する地域では一次プロセスとしてどちらかが支配的になることは避けられない。お互いに干渉しないでいようという意図があればしばらくは平和が続くだろうが、いずれはどちらかの力が強いことが明らかになってきて、バランスは崩れる。

バランスが崩れるのは時の勢いというものだからそこでバランスを取り戻そうとするのはエネルギーの浪費だ。

支配被支配関係は二つの異なる文化間の関係性の歴史の中のひとつのフェーズとして必ず出てくる。そういう関係性になっていることを否定すれば実状とかけはなれた机上の論理になるし、無理に平等な関係に持っていこうとしても必ずバランスはまた崩れる。

大事なのは、このフェーズを生きるに当たって高ランク側があまりひどいことをして後に禍根を残すことがないように気を付けること、低ランク側が準備の足りない段階で平等関係の実現を急がないことだ。格差はあっても互いにある程度幸福な暮らしが可能な状況が続けば自然に融合の時がやってくる。

根拠なしにばんばん言いたいことを言ってるが、直感的にはこれはけっこう当たっていると思う。

中東の危機と殺人観 1/4/09

中東の危機が深まる中で、プロセスワークのローカルのメーリングリストにいろいろな人が読みごたえのある投稿をしている。

アーニー、マックス、ゲアリー、その他のシニアディプロメート、イスラエルのユダヤ人、アメリカのユダヤ人、パレスチナ人、等々、プロセスワークという絆で結ばれてメーリングリストの場で恐れや希望をシェアしている様子を垣間見ることができるのは本当にありがたい。

読んでいて思うのは、プロセスワークの世界でも殺人者のロールを担うことはとてもむずかしいということ。

また、同国人や肉親を殺されても怨みを晴らそうとせずにもくもくと殺人者の支配の元で生活の建て直しを計るロールも超困難。

でもこの二つのロールが欠けていては現代世界のホログラムとしては成り立たない。

攻撃されて殺されるという恐怖、仲間を殺された怨みと悲しみ、殺されないための自衛としての攻撃をするという論理、そういったものはわりと受け入れられるが、ほとんど無感情の殺人ロールとかやはり無感情に見える復興ロールは「人を殺したり、仲間を殺されて無感情というのはショック状態ということで、真の感情とは言えない」ということでロールとして認められない。

でも自然界を見れば、動物はあっさり他の動物を殺して特に感情的なしこりは残さないようだし、子供が殺されそうなときは激しく抵抗しても、子供を殺した相手に復讐するということもあまりないみたいだ。

身内を殺されても、それを殺人者の生活能力の高さであると解釈し、殺された身内の代わりに殺人者に頼って生きていこうとすることはサバイバルスキルとしては十分理解できる。

第二次大戦中のドイツ占領下のフランスとか、日本占領下の台湾や朝鮮や満州では外から来た強力な勢力に従うことで生活を築いていくことを選んだ人々が大多数だったと思う。

大戦後の日本もそうである。私は戦後八年して生まれているので、身内を殺した者に頼って生きることを選んだ世代に育てられたことになる。

中東の危機のニュースを聞いていても、こういう対応をして生きている人達のことは聞こえてこない。主流派の価値観では力に屈して従うことは卑怯だということになっているので、誰も自分がそうしているとは言いたがらない。

言っても「それはあなたの本当の気持ちじゃないでしょう。」と否定されるだろう。でもこの声なしにワールドワークなんてできないんじゃないかと私は思う。

他者を自分の理解できるものに還元する危険性 1/3/09

対立する相手の中に自分と同じものを見ようとする姿勢は対立解消の第一歩として有効かもしれないが、これは危険な罠でもある。

関係性の中でランクの高い側がこの手の共感を示すと、ランクの低い側はそれを受け入れざるを得ない。そしてランクの違いがうやむやにされる。

ランクだけでなくて価値観とか文化とかも違うかもしれない。それを無視して「同じ人間なんだよねえ」とか言って友好的な雰囲気を出そうとすると、ランクの低い側の持つ異質な部分が抑圧されることになる。

そしてその異質な部分が外の世界に投影される。

国家が好戦的になるのはたいてい国内に存在するが認知されない部分を外国に投影するためだ。

家庭から国家に至るまで、どんな共同体でも理解できない同士が協力して生きていかざるを得ない状況にあるので、理解できるふりをすることの危険を常に認識していることが必要だと思う。

理解できないけどケアするという姿勢をとることはむずかしい。自分がして欲しいことを他人にもせよというのは実行は困難でもどうすればよいかは比較的明らかだ。でも求めること自体が異なる他者の場合にはどうすればよいかの方向性さえつかみにくい。

私自身の経験でも、他人は自分と求めるものが違うということを実質的に理解し始めたのは中年にかなり入ってからのことで、今でも他人が自分と同じことを求めているとつい仮定して行動することが極めて多い。

どうしても人間の形をしているものが相手だと自分と同じ欲求を持っているとみなしがちなので、石だとか木だとかコンピュータモニターとかが何を感じ、何を求めているかを受容的に感知しようとする練習が後で対人的にも役立つと思う。

親密圏と家族: 不平等の自覚 1/1/09

内田樹氏のブログに『親密圏と家族』というエントリーがある。(リンクはmixiの虹だいだいさんの日記でみつけた。)


私の『血脈相承と平等思想の矛盾』や『物の蔑視と鬱』ともつながる考え方だなと思った。

関係性というのは不平等なものであって、平等でないから改善しなければならないとか拒絶するべきだということになったら孤立するしかない。

内田氏も言ってるように、よい関係というのは上下がしょっちゅう入れ替わるような関係だろう。プロセスワークのようにランクにいろいろな種類を認めることで、社会的には低ランクだけど心理的ランクは高いとかいった分析が可能になる。

関係というのはどうも抽象的な言葉だが、要するに何かをやりとりすることが関係性の基本だろう。だから御中元とかはけっこう大事な関係性なのだ。もちろん物のやりとりだけじゃなくて、やさしい言葉とか、罵詈雑言のやりとりというのもある。

やりとりだから瞬間的にはやる方ととる方があって、必ず「不平等」である。

育児とか生活能力を失った老人の世話みたいにその不平等さが何年も続くこともある。それを不平等だからといって止めたら子供は育たないし老人の末路は悲惨になる。

むやみに平等を主張すると強者だけしか生きられない世の中になり、誰でもいつかは弱者だたったしいつかは弱者になるのだから、結局全ての人が苦しむことになる。

もともと民主主義というのは強者の論理である。古代ギリシャの民主主義は家長たちが自分がすでに持っている権力に干渉されたくないから作った一種の不干渉条約みたいなものだと思う。お釈迦様のころのインドの各部族もそういう関係を結び、選挙で王を選んだ。中世東ヨーロッパも勢力者たちが選挙で王を選んだ。つまり民主主義は互いに関係なんか持ちたくないから干渉しないでくれというメッセージの具体化なのだ。

まあこれは極端な議論かもしれないが、しかしたとえば戦後の日本とアメリカの関係はどうみても平等ではないのだけれど、それを平等でないということ自体がタブーだった。

都市への原子爆弾の投下という破天荒な行為によって始まった戦後の日米関係が「平等」であるわけがないのは子供にもわかることであるはずだが、そうであるということにされていたのは、主人であるアメリカが平等思想を信奉していて、従属的な立場の日本はそれに従うしかないので、従属関係が明らかでも従属しているということを言うことすら許されなかった。

従属関係だからぺけ、という予断をしなくても済む状態になって初めて日米関係が実質的に議論できるようになる。

関係性を考えるときに、「平等でなければダメ」という枠をまず最初に外さないとそもそも分析を始めることもできないということは明示しておきたい。

関係性は流れであり、流れは高低がないと生じないものなのだ。

関係性におけるランクの違いをしっかりと組み込んだパラダイムを持つプロセスワークの魅力はここにあるのだけれど、しかしプロセスワーカーは欧米系の人(さらに言えば欧米という主流派の中ではやや差別されていると自認している人達)が主流なので、平等思想を高く評価する傾向がある。

彼らはもうひとふんばりすれば主流派に割り込める位置にいるからだ。だから主流派に対して平等を主張する。でもそれは彼らの社会的位置からくる立場というものであって、プロセスワークそのものの特性ではない。

私がMACFOCで三年間どうもしっくりこなかったのは、たとえば日本は米国に従属しているのだからそのことが私とプロセスワークの先生との関係にも反映されるということについてはっきりした理解を示す人がいなかったような気がするということだ。

ファシリテータのスキルの高い人だとランクの高さを攻撃されることに対しての合気道的な対応スキルがあるけれど、それはスキルであって自覚ではないと思う。

不平等だから平等にしようという程度の気持ちでは日本とアメリカみたいな巨大な不平等のギャップを橋渡しすることは不可能だ。橋渡しというのは平等にするということではなくて、不平等であれなんであれ実態を見て最善の対応をしていくということだ。不平等でも互恵的であれば平等ー不平等の座標を動かす必要はない。

内向者の自己一致 12/31/08

今年最後の日である。

沈んでいく』で書いたようなモードが半年経ってさらに深化したようだ。

買い物に行って(最近三週間は家族以外と顔を合わせるのは食品を買うときくらいだ)、レジで勘定を済ませているとき、キャッシュレジスタとかカウンターをなんとなく眺めていた。人の顔も視野の外れにあるがそれほど気にならない。(参考:『人のいるところに空虚を見る』)

ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」ではドナがつい色や形に夢中になって、人が介入してくると暴力をふるってしまうところがショッキングだが、私の場合は人が気になって物の波動が感じられなくなりやすい。しかし外から見れば私も何か話しかけられても完全に無視したりひどくぶっくらぼうだったりすることはあると思う。人間モードじゃないときに人に接近されるとそうなる。

そういえばドナも「キャロル」という、人と如才なく会話のできる人格を操ってある程度普通の人のような対応もできたらしい。

内向ロールとの自己一致は外向ロールが主流派である現代の日米社会ではむずかしい。

何か才能があって社会的ランクが高い場合にのみ、自分の内向性を外に出せる。有名な人が気難しいと言われる場合があるのがそれだと思う。

主流派度の低い人は内向的傾向が生来強い場合でも無理に外交的な顔を作って社会を渡らざるを得ない。気難しい流行作家は受け入れられても、内気な新入社員はなんとか社交的なふりができるようになるまでいじめられるか疎外されると思う。

ヴァージニア工科大学の大量射殺事件の犯人のチョウみたいな青年は内向的だったというふうに描写される。実際そうだったのだろうが、メディアでそのことが大きく報道されるのは、生来内向的だが外交的な顔をよそおってがんばって生きている人々が持つ抑圧された内向性と呼応するものがあるからだろう。

内向者はその基本的性向から言って徒党を組むのがへたである。だからやられっぱなしになりやすい。自閉症のサポートグループというようなものでも、「自閉から抜け出す」だけがフォーカスなら内向性の抑圧という状態には変わりがない。

内向者の自己一致のためのスペースが必要だと痛感する。

重点は神から人へ、そして・・・  12/30/08

フロイトが提唱した無意識というコンセプトはこの世界の主流派の中で市民権を得ている。

プロセスワークもフロイト以来の伝統を受け継いで、無意識に似た二次プロセスというものを考える。

フロイトは意識の側から無意識を見て意識的な目標に合わせて料理しようとする。

プロセスワークはユングの統合というコンセプトと似たビッグUということを考える。

自分が今自分の目指しているものとして意識していることとビッグUとは一致しない。

(でもプロセスワークのセッションではつまるところ意識的な目標の方に最終的な重点が移るような気がする。でもこれはここでは脱線。)

現代の世界観というのは大親分のアメリカの問題解決型の思考法が主流派になっているので、やはり意識的な目標の方と自己一致しないと社会的に機能しにくい面がある。(何が問題であってどういう状態を解決とみなすかは、目標が事前に設定されていないと決めようがない。)

でもプロセスワーク理論的からすると、意識が持っている目標はビッグUとはずれているので、つまり目標が文字どおり達成されるのはまずいということになる。

ヨーロッパではかつては神様だけが崇高な目標を持っていて、人はそれに従うかさぼるかという程度にしか関与していなかった。

人がいろいろもくろみを持っていてもそんなものは私事であり、遠大な目標は神様の専売特許だった。

ところが、ルネサンスあたりから人の相場が上がり、近代を経て現代に至ると人がかつての神様と同じ高みに立つものとされるようになった。

人生の目標といったものが重要なものとみなされるようになった。

しかし人は神ではないのだからこれはもともと無理な話だ。

もともと近代現代に我々が人に帰した特性のいくつかは神の特性だったのだから、人にそれを負わせるのは酷である。

フロイトからプロセスワークに至る流れは人を人のレベルまで引き下ろすという作業だったのではないかと思う。

アーニーがsentientとかビッグUとかearthとかいろんなコンセプトを出してくるのは、人間以外の何かに焦点をずらす必要性から来ていると思う。

神、ではうまくないし、そうかといって具体的な人とか物とか思想とかも危うい。

西欧人がタオイズムとか仏教とかペイガン(たとえばケルト系)とかインディアンの思想に惹かれるのは、中世まで神が引き受けていたものを人間が引き受けるのが重荷過ぎるとわかったので、とりあえず引き受けてくれる何かを物色しているからだと思う。

セッションすっぽかし 12/29/08

久しぶりのプロセスワークのセッションをすっぽかしてしまった。

昨日まで風邪でぼんやりしていたせいか、セッションが明日だと思っていて、昼ごろふと気になってカレンダーを見たらもう二時間すぎていた。

うーん。

思い違い。でも考えてみると29日だということは知っていたのだ。セッションの時間を過ぎてすぐ「おや?」と思ったことからしても、これは私の中の誰かが「行きたくなかった」のだと思う。

過去にもそういうことはあった。(プロセスワークのセッションをすっぽかしたのはこれが初めてだと思うが。)

シャーマンのおばさんのセッションを三年間受けていたとき、彼女がアリゾナに引っ越す前の最後のセッションをすっぽかした。直前まで憶えていたのに、ふと隣家の女性とおしゃべりを始めて、気づいたらもう後の祭りだった。

あのときもどうしてすっぽかしたのかわかがわからなかった。

もしかしたらプロセスワークのセッションを受けることはもうないのかなという気もしてきた。

私の場合MACFOCのトレーニングの一貫としてのセッションだから、セラピーセッションではないのだが、それでも三分の一くらいは実質上のセラピーセッションになった。そして今日のセラピストはセラピー的セッションでもっとも頼りにしていた人だ。

そう思うとこの人に今日会えなかったことを悲しく感じる。

プロセスワークをするんじゃなくてただ一緒にいるだけでもよかったのに。そういう姿勢なら「行きたくなかった」ロールもいやがらなかったかもしれない。

最近引きこもり傾向が強まっているところへ風邪をひいて数日ほとんど外にでなかったので外の世界との同期がうまくとれない感じもある。

ここ一年ほどの趨勢が凝縮して表れたみたい。プロセスワークは考え方としていつも身近にあるが、プロセスワークをやっている人の世界からはずいぶん離れたところに来てしまった。

非自我ロールの取り方 12/24/08

フィヒテの自我の哲学というものがあるらしい。

イメージとしては自我が非自我(環境)に対する影響力を増大して強くなっていくということを正当化したものらしい。「らしい」というのはちらっと読んだことからふくらまして書いているからである。

ふと思ったのは、非自我の側から書いた哲学というのはないのかな、ということ。

環境は人間じゃないからそっちから書いた哲学はあるはずがないという議論もあるだろうが、プロセスワーク的に言えば、環境というのは自我の二次プロセスであって、そのプロセス(ロール)に声を与えることは可能なはずだ。

でも、環境の声を聞くといっても、自我と同じような自己主張を環境から聞くというのはちょっと違うと思う。

そうではなくて、自我にやられっぱなし、荒されっぱなしでも反抗しないというロールが近代的自我の陰画だろう。

このロールに言葉を与えようとすると、たちまち自我ロールに反転してしまいがちだ。そもそも主流派の言葉が自我ロールと一致しているからしかたがない。

近代の価値観からすると人間はこの非自我ロールにとどまってはいけない。必ず抜け出して自我とならなければならない。

たとえば奴隷が解放を求め、女性が男女同権を求め、同性愛者が性志向性差別の撤廃を求めるのはいずれも非自我の側から自我の側への乗り移りを目指してのことだ。

しかし誰かが自我のロールを取れば周囲は非自我のロールを取らざるを得ない。したがって人間が非自我のロールを取る場合はいくらでもある。社会生活では人間の環境は人間なのだから。

私は最近このブログでしょっちゅう言っている物との関係性は私と物の世界の間の関係として重要なだけでなく、人間関係でも重要だと思う。

いくら自我として世界に対しているつもりでも平均50%の時間は他の人の自我の環境(非自我)として我々は生きているのだから、非自我としての存在様態に注意を払うのは当然だろう。

宗教で言う慈悲とか英語のcharityとかいう言葉は非自我としての在り方、ふるまい方を教えようとしているのだと思う。

メーリングリスト上の集会の自由  12/16/08

昨日のUU教会のメーリングリスト上での議論の抑止の続き。

実はメーリングリストは2つあり、議論が起きかけていたのは一般通知用のリストだった。なるほどこれでは通知を受けるためにリストに入っている人は議論は読みたくないかもしれないと思い、もう一つのチャット用のリストを議論に使ったらいいと提案した。

ところがこれにもミニスターからただちに応答があって、「チャットのリストは本教会と直接関係ないがメンバーが興味を持つかもしれないイベントの通知用、ここでも議論はだめです。教会の運営について意見がある人は役員会に参加して意見を述べてください。」とのこと。

つまりメールだけじゃなくてメンバー同士で勝手に教会運営にかかわることを話し合ってはいけないというのだ。

これにはうなった。これだと本当に政府が集会を禁止するような感じだ。

私の感覚では、たしかにメーリングリストで教会の方針についてああだこうだ議論しても決定権がないのだからむだだという意見はまあ理解できる。でもちょっとでも議論の始まる兆しがあるとすぐにばしっと止めるというのはかえって反発を呼ぶんじゃないかなと思った。アメリカ人は自由を尊ぶという私の先入観もある。

でも今のところ、チャットリストで私とミニスターのやりとりを読んだはずのメンバーたちは一人もコメントしていない。

ボディスナッチャーというテーマの映画がある。周りの人々が、見かけは変わらないが性格が変わってしまっていて、実は宇宙生物に入れ替わっていたという話。最近ではInvasionという英語タイトルでニコル・キッドマンが主演していた。私の周りの人たちが民主主義の基本とも言える議論と集会の自由の抑圧をだまって見ているのはちょっと不気味だ。UU教会というのは明示的に民主主義で教会を運営すると宣言しているのだから。

始めから権威主義的な運営をするのがわかっているカトリック教会などであれば、メンバー同士で勝手に教会の方針について話し合ってはいけないと言われてもそれほど反発は感じない。カトリック教会は民主主義の看板を掲げていないからだ。権威主義だから悪いとは私は思わない。

でも民主主義を標榜しつつ教会内の議論を抑圧するのは詐欺だと思う。

ブッシュ政権が恐怖を使って人々をコントロールすることをUU教会は声高に非難していて、それは正しいと思う。でもそれなのに何故足元では恐怖を使ってメンバーをコントロールしようとするのか? 「メールで議論すると大変なことになりますよ、メンバー同士で勝手に教会のことを話すと教会に大きな迷惑がかかりますよ。」これはやっぱり恐怖によるコントロールである。

ワンサイデッド(一方的)な議論をしてしまったが、言い切ってしまった方がいいと思うのでこれでよしとする。また後で相手側のロールについてじっくり検討しよう。両方一緒にやろうとするとどっちも歯切れが悪くなっておもしろみがない。

メーリングリスト上の議論は教会にとって危険か 12/15/08

UU教会のメーリングリストで、集会で椅子が足りないという指摘があってそこからディスカッションが始まった。するとすぐに役員とミニスターが「一般メーリングリスト上でのディスカッションは止めて、ディスカッションしたいなら担当の委員会にメールするか、興味のある人たちだけにメールを送ってください」と発言した。

むかっとした。すぐ反発したくなったが、とりあえずは「自分はメールででもないとメンバーの意見を知る機会があまりないので、止めに入るのはもうちょっと待ってからにしてくれないか」とやわらかくお願いしてみた。

ミニスターに聞いた話ではUU教会の全国組織では各教会がメーリングリストを持つことそのものに警戒心が強い。リスト上で議論を始めるのは論外ということらしい。

たしかにメーリングリスト上の議論が妙に白熱して攻撃的になり、いやな後味を残すという話はよく聞く。

だけど、私が参加しているいくつかのリストではそれが大きな問題になったことはない。このUU教会でもずいぶん大きな対立が過去にあったが、それはメールとは関係のないところで起きた。

私は『読み書き派対しゃべり派』で書いたようにメールの方が言いたいことが言えるたちだ。だからメールでの議論を封じられると、自分が参加していない議論であってもちょっと逆上する。

独裁主義政権に集会を禁止された民衆になったような気がする。

UU教会という超リベラルな組織が自組織内の統治ということになるとあっさりメンバーの自由な議論を抑えるというのがどうも気に入らない。もともと保守的な組織がそう言うのなら少なくとも首尾一貫しているからそれほど腹は立たない。

こっち側から言いたいことを言ったので今度は向こう側の声を想像してみる。

「メーリングリストでは相手の顔が見えないから参加者がはばかりなく言いたいことを言ってしまい、それを読んだ相手はひどく傷つくので収拾のつかない中傷合戦になってしまう。」

「人間のコミュニケーションの70%以上は非言語的なものだ。言葉だけのメールでは誤解が重なって有効なコミュニケーションが不可能になる。」

とこう書いてみると『メーリングリスト上のグループプロセス』ですでに論じたことの繰り返しになりそうなので、詳しくは書かない。

今日付け加えることがあるとすれば、気持ちとして、抑えられることへの反発が強まっているということ。

抑圧者側の声として「我々は何が正しいか知っている。君たちは我々の指導に従って行動すればUU教会を強化して世の中に影響を与えることができるのだ。だからつまらない反発は止めなさい。君たち同士で議論したって結果は知れているのだから。」

ジェラシーとテーバー山参り満願 12/14/08

MACFOCで仲良しだったクラスメート(Yさん)がプロセスワークで学んだことを教える学校を設立して認可を受けた。

うらやましいなとふと思った。私はと言えばほとんどなにもしていないに等しい。なにもしていないという状態自体なかなか興味深いが、今日はジェラシー(嫉妬)についてプロセスワークで教わったことを書いてみる。

ジェラシーはグループプロセスではよく出てくる感情だ。

自分のやっていることあるいはやろうとしていることで他人が成功を収めたと聞けば多少のジェラシーは誰にでもあるだろう。

ジェラシーを感じたときは、ジェラシーの対象を自分の中に見つけ出しなさい、ということを先生がよく言っていた。

私がうらやましいと思ったのは、Yさんが自分のやりたい方向でどんどん世の中に働きかけて成果を上げている点だ。

プロセスワーク的な見方ではこれは今自分がアイデンティファイしていない二次プロセスなのだ。

といって、私が学校を設立したわけではないから、自分の生活の中で何かそれに対応するようなことをしているのではないかということを問うことになる。

Yさんは人と人の関係をサポートする組織を作った。私であればそれは人と物との関係のサポートということになる。

今日はテーバー山参りの八日目、最終日だった。ポートランドには珍しい寒さと雪の中を歩いた。行きは冷たい向かい風で顔が痛かった。山の上は意外に風も静かで、多くの人々が橇遊びに興じていた。

テーバー山参りは山とのコミュニケーションリンクを強化する試みといえる。八日間毎日異なる気象状況の中で山とつき合い、ある程度までつうかあの関係ができたような気がする。何かを設立したといえばこれのことだろう。

テーバー山参りには私が考えていた以上に重要な意味がある、というのがとりあえずのフレーミングだ。

ブレーキロール 12/12/08

昨日のエントリーはめろめろになってしまった。

一つ気がついたのは、「みんなで協力してディープエコロジーを広めましょう」といった掛け声には乗れないということだ。

何かを集団で積極的に押し進めようという運動にはそれがどんなテーマであれ私は二の足を踏むと思う。

私の基本的なロールはブレーキ、つまり「否」を言うロールだ。誰かがニーチェのことを偉大なノーセイヤー(ノーを言う人)と呼んだのを覚えているが、世の中にはそういうロールも必要だ。

他と違うというリーダーシップ』で書いたようにこれは家系でもある。

ブレーキのない自動車が役に立たないように、物事を進める人だけでは社会は機能しない。止める人も必要だ。

あれ、なんか言い訳口調になってるぞ。

ブレーキ役という一次プロセスで話をまとめようとしているからちょっと窮屈なんだろう。集団を煽動するアジテータという二次プロセスがあるのかな。

アジテータだったらどんなことを言うだろうか? 「群集を離れろ! でないと催眠術から抜け出せないぞ!」かな? この辺は『組織のビジョンへの反発』と関係していそうだ。組織に帰属することで心の安定を得るという道が閉ざされているということ。

おっと、今度は説明調になってる。エッジ行動の見本市だなこれは。

私自身に「組織」的なところがあるとすれば他になんのサポートがなくても自らの権威で判断し、外部からの影響を遮断する傾向だろう。

それだからこそ組織の催眠効果に敏感に反応するのだ。

でもこれもなんか自虐的だなあ。

しゃべるなって言ってるロールがいるような気がする。

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