非暴力コミュニケーション 11/24/09
非暴力コミュニケーションのクラスを二回受けた。
禅センターがリーダーシップクラスというのをやっていて、その一部として非暴力コミュニケーションのクラスをやったわけだ。
自分のフィーリングとニーズを友好的に表現していくスキルとして使えるところがありそうだ。
ノーの言い方という演習もあった。
こういうとき、私は自分の中にイエスと言いたいロールとノーと言いたいロールがあるんだけどそういうときはどうするのかと尋ねたら、「そのうちのどちらかは習慣的なエネルギー(habit energy)なんじゃないですか?」と逆に聞かれた。
なるほど、活きのいい方のロールでいこうというわけか。
これは使えるかも、と思った。
インストラクターはさらに「コネクトしたいけど習慣的に離れようとするのかも」とも言った。
これはなんとなく近づく方が善で離れる方が悪という価値判断が入っているようで、ちょっと気持ち悪かった。
非暴力コミュニケーション(NVC)はフィーリングとニーズに関する豊かな言葉のセットを用意している。
親密な関係ではフィーリングを主にして話し、仕事などではニーズを主にして話す、という区別も教わった。なるほどそうだろう。
NVCが「わたしはこう感じる」とか「わたしはこれを必要としている」とかを強調することで、仏教で幻想とされている自己の感覚を強めてしまうのではないか、という疑問もあったが、それは聞かなかった。
禅センターがリーダーシップクラスというのをやっていて、その一部として非暴力コミュニケーションのクラスをやったわけだ。
自分のフィーリングとニーズを友好的に表現していくスキルとして使えるところがありそうだ。
ノーの言い方という演習もあった。
こういうとき、私は自分の中にイエスと言いたいロールとノーと言いたいロールがあるんだけどそういうときはどうするのかと尋ねたら、「そのうちのどちらかは習慣的なエネルギー(habit energy)なんじゃないですか?」と逆に聞かれた。
なるほど、活きのいい方のロールでいこうというわけか。
これは使えるかも、と思った。
インストラクターはさらに「コネクトしたいけど習慣的に離れようとするのかも」とも言った。
これはなんとなく近づく方が善で離れる方が悪という価値判断が入っているようで、ちょっと気持ち悪かった。
非暴力コミュニケーション(NVC)はフィーリングとニーズに関する豊かな言葉のセットを用意している。
親密な関係ではフィーリングを主にして話し、仕事などではニーズを主にして話す、という区別も教わった。なるほどそうだろう。
NVCが「わたしはこう感じる」とか「わたしはこれを必要としている」とかを強調することで、仏教で幻想とされている自己の感覚を強めてしまうのではないか、という疑問もあったが、それは聞かなかった。
坐禅のスペースを守る 11/23/09
朝の座禅中に電話がかかってきて、答えたら歯医者が息子の予約時間(4時)を変更したいと言う。
息子は学校だから連絡取れるかどうかわからないが試してみると答えた。
昼に息子の携帯に電話したら答えたので予約の変更のことを伝えて、予約が早まったからうちに帰ってくる時間がないので、私が学校まで来るまで迎えに来ると言った。
そのすぐ後歯医者に電話したら「あら、もう4時でいいんですよ。あの枠は埋まったから」と言われて気分を害した。
あわてて息子に電話したがもちろん息子は出ない。
歯医者に電話して、埋まったのならすぐ電話してくれないと困る、と言ったら「でもついさっきだったから。」と恬然としている。
かなり熱くなっている自分に気づいて、じっと地面を見つめてみると「赦し」とう文字が浮かんだ。
歯医者のことを赦せということなのだろう。
そして気づいたのは、多分坐禅の途中で電話に出たことで自分の内向的なロールが傷を負ったのだろうということ。
坐禅を始めたころは座禅中に電話になんか絶対出なかったのだが、このごろはわりと坐禅が安定してきたから電話に出たりもするようになった。
でも今日の自分の反応を見ると、その辺ちょっとリラックスしすぎていたなと思う。
日本に行ってたくさん人と会って外向ロールが活性化された状態で帰ってきた。
そして、この外向ロールが自分なのだと思い始めていたのだろう。
外向ロールには坐禅の価値はわからないからたやすく電話に出たりする。
ここ数日、内向ロールがようやく私の中で主流派の位置を回復してきている。
だから電話に出たことやその後の展開にひどく心が乱された。
外向ロールも内向ロールも私の全てではない。
私は内向度が高いから内向ロールの方が私の中では主流派であり、外向ロールは少数派であるが、人の世界との接触が多いと一時的に外向ロールが表に出る。
でもその状態は安定して続きはしない。
「我に返れば」また内向ロールの方がすぐに勢いを盛り返してくる。
弱りかけた外向ロールはもっと人と会う状況を作ろうともがくが、それは実現しない。
私としては外向ロールと内向ロールの間の関係性があまり悪くならないように注意するべきだ。
外向ロールが世間の価値観をかさにきて内向ロールを蔑視したり、内向ロールが外向ロールのやることを無価値だと切って捨てるような関係では私はつらい。
そういう大局観を持ちつつ、今日は内向ロールの傷つきを重視して、坐禅のスペースをきちっと尊重するという意志を確認しておこう。
息子は学校だから連絡取れるかどうかわからないが試してみると答えた。
昼に息子の携帯に電話したら答えたので予約の変更のことを伝えて、予約が早まったからうちに帰ってくる時間がないので、私が学校まで来るまで迎えに来ると言った。
そのすぐ後歯医者に電話したら「あら、もう4時でいいんですよ。あの枠は埋まったから」と言われて気分を害した。
あわてて息子に電話したがもちろん息子は出ない。
歯医者に電話して、埋まったのならすぐ電話してくれないと困る、と言ったら「でもついさっきだったから。」と恬然としている。
かなり熱くなっている自分に気づいて、じっと地面を見つめてみると「赦し」とう文字が浮かんだ。
歯医者のことを赦せということなのだろう。
そして気づいたのは、多分坐禅の途中で電話に出たことで自分の内向的なロールが傷を負ったのだろうということ。
坐禅を始めたころは座禅中に電話になんか絶対出なかったのだが、このごろはわりと坐禅が安定してきたから電話に出たりもするようになった。
でも今日の自分の反応を見ると、その辺ちょっとリラックスしすぎていたなと思う。
日本に行ってたくさん人と会って外向ロールが活性化された状態で帰ってきた。
そして、この外向ロールが自分なのだと思い始めていたのだろう。
外向ロールには坐禅の価値はわからないからたやすく電話に出たりする。
ここ数日、内向ロールがようやく私の中で主流派の位置を回復してきている。
だから電話に出たことやその後の展開にひどく心が乱された。
外向ロールも内向ロールも私の全てではない。
私は内向度が高いから内向ロールの方が私の中では主流派であり、外向ロールは少数派であるが、人の世界との接触が多いと一時的に外向ロールが表に出る。
でもその状態は安定して続きはしない。
「我に返れば」また内向ロールの方がすぐに勢いを盛り返してくる。
弱りかけた外向ロールはもっと人と会う状況を作ろうともがくが、それは実現しない。
私としては外向ロールと内向ロールの間の関係性があまり悪くならないように注意するべきだ。
外向ロールが世間の価値観をかさにきて内向ロールを蔑視したり、内向ロールが外向ロールのやることを無価値だと切って捨てるような関係では私はつらい。
そういう大局観を持ちつつ、今日は内向ロールの傷つきを重視して、坐禅のスペースをきちっと尊重するという意志を確認しておこう。
引き寄せ 11/22/09
日本にいる人達から引き寄せという言葉をよく聞く。
欲しいものを引き寄せるためにはっきり言葉にして宇宙に呼びかけるとか、なにかおまじないをするということらしい。
『欲しがる自分と与える自分』で書いたように、私は自分が何かを欲しいというところから出発するのが苦手だ。
何が欲しいものがあるという状態は重たい。
腹が減っていて食べ物が欲しいというような自然な欲求はいいけれど、たいていの欲求は欲するものを手に入れてもすぐに次が欲しくなるという中毒的なものになっている。
こういう危険については、やや別の角度から『一人の時間の罠』でも触れた。
とはいえ、引き寄せというコンセプトには魅力もある。
私が引き寄せをするならどんなことを引き寄せようとするか、と考えてみた。
地下室に溢れる日本の本を一部引き取ってくれる人!
ちゃんと本を大事にしてくれる人がいい。
プロセスワークの学びを使える仕事も引き寄せたい。
その前段階として、どんなクライエントにどんなサービスをできるのか、イメージを追求していきたい。
こういうふうにはっきり言葉にすることには一定の効果があると思う。
私が引き寄せということをするのを躊躇するのは、今日何かを引き寄せて明日それが本当に来たとして、明日の私がそれを喜ぶだろうかということにかなり疑問があるということがある。
たいていのことに関して私は自分の内部に意見の分裂があるからだ。
何かを手に入れることは私の中のあるロールを喜ばせるが、それに対立するロールは起こるし怨みをいだくかもしれない。
自分の中に紛争を起こすことはなるたけ避けたい。
私が欲しがることに二の足を踏みやすいのは多分このためだ。
上に挙げた二例でも、私の中にそういうことが実現することを喜ばないロールもちゃんといる。
そういうロールをあまり怒らせると内部紛争が激化して消耗である。
引き寄せというコンセプトに対するもやもやを書いてみた。
まだまだクリアじゃないが少しは話が先に進むかも。
欲しいものを引き寄せるためにはっきり言葉にして宇宙に呼びかけるとか、なにかおまじないをするということらしい。
『欲しがる自分と与える自分』で書いたように、私は自分が何かを欲しいというところから出発するのが苦手だ。
何が欲しいものがあるという状態は重たい。
腹が減っていて食べ物が欲しいというような自然な欲求はいいけれど、たいていの欲求は欲するものを手に入れてもすぐに次が欲しくなるという中毒的なものになっている。
こういう危険については、やや別の角度から『一人の時間の罠』でも触れた。
とはいえ、引き寄せというコンセプトには魅力もある。
私が引き寄せをするならどんなことを引き寄せようとするか、と考えてみた。
地下室に溢れる日本の本を一部引き取ってくれる人!
ちゃんと本を大事にしてくれる人がいい。
プロセスワークの学びを使える仕事も引き寄せたい。
その前段階として、どんなクライエントにどんなサービスをできるのか、イメージを追求していきたい。
こういうふうにはっきり言葉にすることには一定の効果があると思う。
私が引き寄せということをするのを躊躇するのは、今日何かを引き寄せて明日それが本当に来たとして、明日の私がそれを喜ぶだろうかということにかなり疑問があるということがある。
たいていのことに関して私は自分の内部に意見の分裂があるからだ。
何かを手に入れることは私の中のあるロールを喜ばせるが、それに対立するロールは起こるし怨みをいだくかもしれない。
自分の中に紛争を起こすことはなるたけ避けたい。
私が欲しがることに二の足を踏みやすいのは多分このためだ。
上に挙げた二例でも、私の中にそういうことが実現することを喜ばないロールもちゃんといる。
そういうロールをあまり怒らせると内部紛争が激化して消耗である。
引き寄せというコンセプトに対するもやもやを書いてみた。
まだまだクリアじゃないが少しは話が先に進むかも。
導く星のないところ 11/21/09
禅センターの若い雲水がどんどんクラスの計画を出してくる。
今回は道元の永平公録。
最近英訳されたらしい。
ちょっとさびしいなと思ったのは、私自身は今道元をもっと勉強しようという気にはならないということ。
その気持ちをしばらく味わっていたら、そういえばそれはプロセスワークについても言えることだと気づいた。
アーニーのクラスすら出る気がしない。
DAYAさんがイスラエルのワールドワークで活躍して帰ってきたところだが、いいなあと思いつつも自分が行きたいという気持ちは弱い。
ある意味これは動きたがらない私の性質ということでもある(参考:『動かないが染まる人』)。
でも今私のいる場所はその中でも特に導く星がないところであるような気がする。
星が出ていないわけではないがその輝きがだんだんくすんできている。
そして、薄暗闇の中で、自分が立っている足元の地面やカーペットや舗装道路をただ見つめている。
何の変哲もないそうしたいろいろな物から常時送られてくる言葉にならないメッセージの新鮮さを感じて、ときには背骨がふるえたりしている。
そうかと思うと猫が毛糸のカーディガンに穴を開けたのにひどく腹を立ててみたり。
梅の枝を落として親指の関節炎が痛むのに顔をしかめたり。
つれのぐちを聞きながら一緒にジグソーパズルをやったり。
今回は道元の永平公録。
最近英訳されたらしい。
ちょっとさびしいなと思ったのは、私自身は今道元をもっと勉強しようという気にはならないということ。
その気持ちをしばらく味わっていたら、そういえばそれはプロセスワークについても言えることだと気づいた。
アーニーのクラスすら出る気がしない。
DAYAさんがイスラエルのワールドワークで活躍して帰ってきたところだが、いいなあと思いつつも自分が行きたいという気持ちは弱い。
ある意味これは動きたがらない私の性質ということでもある(参考:『動かないが染まる人』)。
でも今私のいる場所はその中でも特に導く星がないところであるような気がする。
星が出ていないわけではないがその輝きがだんだんくすんできている。
そして、薄暗闇の中で、自分が立っている足元の地面やカーペットや舗装道路をただ見つめている。
何の変哲もないそうしたいろいろな物から常時送られてくる言葉にならないメッセージの新鮮さを感じて、ときには背骨がふるえたりしている。
そうかと思うと猫が毛糸のカーディガンに穴を開けたのにひどく腹を立ててみたり。
梅の枝を落として親指の関節炎が痛むのに顔をしかめたり。
つれのぐちを聞きながら一緒にジグソーパズルをやったり。
企業と政府の力関係 11/20/09
企業と政府という二つのシステムが社会の運営の主導権をめぐって争っている。
そして勝ちつつあるのは企業である。
政府を冷血動物とすれば企業は温血動物である。
動きが速くてその分エネルギーの消費も大きい。
最近までは一般に政府の方が規模が大きかったから企業をある程度コントロールすることができた。
でも今は企業の規模がここ二十年だけでもずっと大きくなって、政府の手に負えなくなってきている。
力関係の違いはたとえば税金に表れている。
かつては企業は政府に税金を払っていた。
でも今のアメリカでは企業からの税金の寄与はほぼゼロであるといわれている。
強力な法律部門を持つ大企業はなんだかんだ理由を付けて税金を払わずに済んでいる。
今は逆に企業の方が政府の徴収した税金を自分達のポケットに入れる工夫をするのに余念がない。
人心を煽って戦争に巻き込み、政府に高価な武器を売る。
インフルエンザの恐さを強調してワクチンが必要だというふうに世論を作り、人々が買えなければ政府が資金を出すようにしむける。
今回の健康保険システムの話も、多分製薬会社、保険会社をはじめとするいろいろな企業が政府から税金を吸い取る仕掛けを作るプロセスになるのだろう。
あるいは自分が倒産すると多くの人々が困るぞと政府を脅かしてやはり税金で援助を受ける。
要するに大きな金の流れはいつも政府から企業へ、なのだ。
こういう極端な現象は政府がまだ強い国ではそれほど起こっていない。
たとえばフランスとか日本とかではまだそんなに極端ではないだろう。
政府が弱い国、いわゆる開発途上国ではすでに政府を通じて企業が人々の富を絞り上げるという仕掛けはかなり長いこと存在していた。
アメリカは個人主義が強くて、「先進国」のわりには政府が弱かったので、死にかけた大蜥蜴のような政府が狼のような企業に喰いちぎられる状態になっている。
でも企業と政府の力関係のバランスが企業側に傾く傾向が続くならばいずれは日本やフランスも似たような運命をたどるのだろう。
だからお先真っ暗だと言おうとしているわけではない。
相当な混乱が予想されるのはたしかだと思う。
たとえていえば平安時代から鎌倉時代への変化みたいなものだ。
貴族から武士へのヘゲモニー(覇権)の移動。
これは相当な混乱だった。
曹洞禅、浄土真宗、日蓮宗など、日本の仏教の主な流派はみんなこのころに出てきている。
混乱の時代だったから新しいスピリチュアリティが必要とされたのだろう。
武士なんてもともとは野盗のたぐいであるから、武士の政権は相当あらっぽものだっただろうが、時代がくだって江戸時代の末期になるとずいぶん落ち着いたやさしい支配になっていたことが「逝きし世の面影」からうかがえる。
今の企業は支配者の風格がまだないからやることがえげつないが、そのうちだんだん風格のある企業人が人々にとってよい生活が可能になるように工夫するようになるのだろう。
今は企業が政府に対して、まるでティーンエージャーが親に対するときのようなどこまででも取れるものは取ってしまえという姿勢だが、政府との間の力関係の変化が行くところまで行ったらもっと成熟した行動を取れるだろう。
なんにせよ、何が善で何が悪か、あるいはそもそも善悪が行動の基準となるのか、といったけっこうスピリチュアルな問題がこれから緊急性を増してくるだろう。
この辺のことでこのブログが少しでも役に立てば、と夢は大きく持っている。
そして勝ちつつあるのは企業である。
政府を冷血動物とすれば企業は温血動物である。
動きが速くてその分エネルギーの消費も大きい。
最近までは一般に政府の方が規模が大きかったから企業をある程度コントロールすることができた。
でも今は企業の規模がここ二十年だけでもずっと大きくなって、政府の手に負えなくなってきている。
力関係の違いはたとえば税金に表れている。
かつては企業は政府に税金を払っていた。
でも今のアメリカでは企業からの税金の寄与はほぼゼロであるといわれている。
強力な法律部門を持つ大企業はなんだかんだ理由を付けて税金を払わずに済んでいる。
今は逆に企業の方が政府の徴収した税金を自分達のポケットに入れる工夫をするのに余念がない。
人心を煽って戦争に巻き込み、政府に高価な武器を売る。
インフルエンザの恐さを強調してワクチンが必要だというふうに世論を作り、人々が買えなければ政府が資金を出すようにしむける。
今回の健康保険システムの話も、多分製薬会社、保険会社をはじめとするいろいろな企業が政府から税金を吸い取る仕掛けを作るプロセスになるのだろう。
あるいは自分が倒産すると多くの人々が困るぞと政府を脅かしてやはり税金で援助を受ける。
要するに大きな金の流れはいつも政府から企業へ、なのだ。
こういう極端な現象は政府がまだ強い国ではそれほど起こっていない。
たとえばフランスとか日本とかではまだそんなに極端ではないだろう。
政府が弱い国、いわゆる開発途上国ではすでに政府を通じて企業が人々の富を絞り上げるという仕掛けはかなり長いこと存在していた。
アメリカは個人主義が強くて、「先進国」のわりには政府が弱かったので、死にかけた大蜥蜴のような政府が狼のような企業に喰いちぎられる状態になっている。
でも企業と政府の力関係のバランスが企業側に傾く傾向が続くならばいずれは日本やフランスも似たような運命をたどるのだろう。
だからお先真っ暗だと言おうとしているわけではない。
相当な混乱が予想されるのはたしかだと思う。
たとえていえば平安時代から鎌倉時代への変化みたいなものだ。
貴族から武士へのヘゲモニー(覇権)の移動。
これは相当な混乱だった。
曹洞禅、浄土真宗、日蓮宗など、日本の仏教の主な流派はみんなこのころに出てきている。
混乱の時代だったから新しいスピリチュアリティが必要とされたのだろう。
武士なんてもともとは野盗のたぐいであるから、武士の政権は相当あらっぽものだっただろうが、時代がくだって江戸時代の末期になるとずいぶん落ち着いたやさしい支配になっていたことが「逝きし世の面影」からうかがえる。
今の企業は支配者の風格がまだないからやることがえげつないが、そのうちだんだん風格のある企業人が人々にとってよい生活が可能になるように工夫するようになるのだろう。
今は企業が政府に対して、まるでティーンエージャーが親に対するときのようなどこまででも取れるものは取ってしまえという姿勢だが、政府との間の力関係の変化が行くところまで行ったらもっと成熟した行動を取れるだろう。
なんにせよ、何が善で何が悪か、あるいはそもそも善悪が行動の基準となるのか、といったけっこうスピリチュアルな問題がこれから緊急性を増してくるだろう。
この辺のことでこのブログが少しでも役に立てば、と夢は大きく持っている。
自己責任 11/19/09
先日、練習グループプロセスで、今回の経済危機で困っているロールに対して「君がちゃんとこういう事態に備えてこなかったから今困ってるんだ。これは君の責任だ。」と言ってみた。
そしたら猛烈に抗議された。
面食らった。
私なら、お前の努力が足りなかったと言われたら反論できない。
私はいつも自分ができるたけの努力をしていないという強迫観念があるみたいで、人にそう言われるとこたえる。
中学のころ、けっこう勉強ができたが、母から「あんたはさぼるからそのうちみんなに追い越されるよ」と言われたことがある。
その後の人生で、たしかに私はいつも後から来た人に追い越される役だった。
始めは調子が良くても後で勢いがなくなる。
組織の中に受け入れられるとさぼりまくって迷惑をかける。
だから会社や研究室は無理だと思って一人で翻訳をして飯を食うようになった。
これだと自分が働かないとすぐにそれこそ飯が食えなくなるからサボり屋の自分にはいいと思ったのだ。
この選択は成功だったと思う。
つまり自己責任システムじゃないと私は働かないのだ。
だからというか、健康保険システムとかには懐疑的だ。
みんながシステムにぶらさがろうとするだけで支えようとはしなくなるんじゃないか、と疑ってしまう。
しかしこれはいくらなんでも随分偏ったものの見方だ。
そして、『日本人としてのカムアウト』というテーマに取り組むときにもこの「自己責任論」がアキレス腱になる。
たとえば、広島と長崎の原爆について、「真珠湾攻撃や南京大虐殺を考えてみろ、自業自得だ」と言われると気弱になる。
だから、最初に触れたグループプロセスで私の自己責任論的な言辞に猛烈に抗議してきた人のエネルギーに学びたいと思う。
そしたら猛烈に抗議された。
面食らった。
私なら、お前の努力が足りなかったと言われたら反論できない。
私はいつも自分ができるたけの努力をしていないという強迫観念があるみたいで、人にそう言われるとこたえる。
中学のころ、けっこう勉強ができたが、母から「あんたはさぼるからそのうちみんなに追い越されるよ」と言われたことがある。
その後の人生で、たしかに私はいつも後から来た人に追い越される役だった。
始めは調子が良くても後で勢いがなくなる。
組織の中に受け入れられるとさぼりまくって迷惑をかける。
だから会社や研究室は無理だと思って一人で翻訳をして飯を食うようになった。
これだと自分が働かないとすぐにそれこそ飯が食えなくなるからサボり屋の自分にはいいと思ったのだ。
この選択は成功だったと思う。
つまり自己責任システムじゃないと私は働かないのだ。
だからというか、健康保険システムとかには懐疑的だ。
みんながシステムにぶらさがろうとするだけで支えようとはしなくなるんじゃないか、と疑ってしまう。
しかしこれはいくらなんでも随分偏ったものの見方だ。
そして、『日本人としてのカムアウト』というテーマに取り組むときにもこの「自己責任論」がアキレス腱になる。
たとえば、広島と長崎の原爆について、「真珠湾攻撃や南京大虐殺を考えてみろ、自業自得だ」と言われると気弱になる。
だから、最初に触れたグループプロセスで私の自己責任論的な言辞に猛烈に抗議してきた人のエネルギーに学びたいと思う。
少数派の内的抑圧 11/18/09
差別問題がグループプロセスで扱われるとき、必ず考慮すべきなのがこの少数派の内的抑圧である。
たとえば黒人が白人に差別されている場合、黒人の個人は白人の優越ということを内面化して自己否定的な見方をしやすい。
私は日本人でアメリカに住んでいるが、普段は差別されているなんて感じない。
しかし、アジア人や他の日本人を見たときにふといやな感じがしたりする。
そういうときは有色人種を差別する目を自分も持っているんだなと気づく。
Myers-Briggsの性格テストで私と同じ内向タイプの人を見てもあまりいい印象を持たなかった。
これも内向タイプに対する社会の主流派の批判的な見方を私が内面化してることと関係していると思う。
差別問題ではこの内的抑圧が話を複雑にする。
そして、私の場合もそうだが、被差別側は自分自身の内的抑圧に気づきにくい。
二年前の『内的抑圧』では自分の内部の抑圧者と被抑圧者のロールでベクターウォークをしてビッグUを求めるという答えを一応出した。
今も基本的にはそうなんだろうと思う。
しかし昨日の『ロールの二つの意味: その2』に続けて前に書いたことを繰り返しているのは何故だろう?
まるで思考が壁に当たって後ろに戻ったみたいな奇妙な気持ちだ。
一昨日の『日本人としてのカムアウト』で何か壁に当たったのかな。
そういえばなんか歯切れが悪いなあとは思っていた。
プロセスワークの学びに戻ろうという意志が一方にあり、もうプロセスワークなんていわずに自分で考えていけばいいじゃんという意志が他方にある、ということかな。
戻ろうって言うこと自体、離れてるという自覚を前提にしてるんだなあ。
そうか、プロセスワークの限界みたいなことをぼんやり考えていたのも最近だ。
ふむふむ、日本で会ったプロセスワーク関係の友人たちと話しているうちに、日本ではプロセスワークといってもポートランドのそれからは各人それぞれかなり異なる方向へ行ってるような気がしていたのだった(参考:『プロセスワーク的なもの』)。
話がそれてきたみたいだが、少数派の内的抑圧という書き出しのテーマと多分どこかでつながっているんだろうな。
そういえば日本のプロセスワーク界で、「お前はプロセスワークから外れている」という批判と「プロセスワークそのままじゃ日本では通用しないよ」という批判の両方が聞こえたような気もする。
今のは自分の二次プロセスを第三者の声として語っているんだろう。
私自身そもそもこのブログを書き出した理由が、MACFOCで習ったままのプロセスワークじゃ自分の役に立たないから徹底的に日本語で考えてこねなおしたいということだったのだ、そういえば。
(やや論理が飛ぶが)そうか、上述の『日本人としてのカムアウト』での迷いは、日本人として本当にカムアウトしてしまうともう自分はプロセスワークの範疇から外れてしまうというひるみから来ていたのかもしれない。
プロセスワーク自体、どこかで文化的な白人優越主義とつながっているから?
わ、これは強烈にエッジーな発言だ。
でも幾分かの真実を含んでいるかもしれない。
危ないなあ、躊躇したり後戻りしたりするのはこういう地点では賢いことだ。
たとえば黒人が白人に差別されている場合、黒人の個人は白人の優越ということを内面化して自己否定的な見方をしやすい。
私は日本人でアメリカに住んでいるが、普段は差別されているなんて感じない。
しかし、アジア人や他の日本人を見たときにふといやな感じがしたりする。
そういうときは有色人種を差別する目を自分も持っているんだなと気づく。
Myers-Briggsの性格テストで私と同じ内向タイプの人を見てもあまりいい印象を持たなかった。
これも内向タイプに対する社会の主流派の批判的な見方を私が内面化してることと関係していると思う。
差別問題ではこの内的抑圧が話を複雑にする。
そして、私の場合もそうだが、被差別側は自分自身の内的抑圧に気づきにくい。
二年前の『内的抑圧』では自分の内部の抑圧者と被抑圧者のロールでベクターウォークをしてビッグUを求めるという答えを一応出した。
今も基本的にはそうなんだろうと思う。
しかし昨日の『ロールの二つの意味: その2』に続けて前に書いたことを繰り返しているのは何故だろう?
まるで思考が壁に当たって後ろに戻ったみたいな奇妙な気持ちだ。
一昨日の『日本人としてのカムアウト』で何か壁に当たったのかな。
そういえばなんか歯切れが悪いなあとは思っていた。
プロセスワークの学びに戻ろうという意志が一方にあり、もうプロセスワークなんていわずに自分で考えていけばいいじゃんという意志が他方にある、ということかな。
戻ろうって言うこと自体、離れてるという自覚を前提にしてるんだなあ。
そうか、プロセスワークの限界みたいなことをぼんやり考えていたのも最近だ。
ふむふむ、日本で会ったプロセスワーク関係の友人たちと話しているうちに、日本ではプロセスワークといってもポートランドのそれからは各人それぞれかなり異なる方向へ行ってるような気がしていたのだった(参考:『プロセスワーク的なもの』)。
話がそれてきたみたいだが、少数派の内的抑圧という書き出しのテーマと多分どこかでつながっているんだろうな。
そういえば日本のプロセスワーク界で、「お前はプロセスワークから外れている」という批判と「プロセスワークそのままじゃ日本では通用しないよ」という批判の両方が聞こえたような気もする。
今のは自分の二次プロセスを第三者の声として語っているんだろう。
私自身そもそもこのブログを書き出した理由が、MACFOCで習ったままのプロセスワークじゃ自分の役に立たないから徹底的に日本語で考えてこねなおしたいということだったのだ、そういえば。
(やや論理が飛ぶが)そうか、上述の『日本人としてのカムアウト』での迷いは、日本人として本当にカムアウトしてしまうともう自分はプロセスワークの範疇から外れてしまうというひるみから来ていたのかもしれない。
プロセスワーク自体、どこかで文化的な白人優越主義とつながっているから?
わ、これは強烈にエッジーな発言だ。
でも幾分かの真実を含んでいるかもしれない。
危ないなあ、躊躇したり後戻りしたりするのはこういう地点では賢いことだ。
ロールの二つの意味: その2 11/17/09
プロセスワークではロールという言葉が二つの異なる使われ方をする。
一つはロールプレーにおいて誰かが何かの役を演じるという意味でのロール。
ファシリテータが「誰かここで抑圧者のロールを取ってくれませんか?」と聞いたりする。
ロールを取る人は意識的に自分の一次プロセスとは異なる配役になる。
ここで以前のエントリーをチェックしたら、ここで書こうとしていたことと同じことを同じタイトルで一年半前に書いていた(『ロールの二つの意味』)。
ただ、一つ付け加えることがあるとすれば、自分自身の行動を見て、自分があるロールにはまっていたんだなと気づくことの重要さ、だろうか。
ロールというのは意味を持っている。
自分のしたことが良かったとか悪かったとかいう価値判断とは別に、場の中で他のロールとの関係でどんなロールだったのかという理解を持つことが重要だ。
それは『多数の「私」によるタイムシェアリング』で書いたようないろいろな「私」同士が出会える舞台を心の中に作っていく作業であるとも言える。
あるいは「これが私だ」と思って行動したのに、振り返ってみると他人のように見えたりする、という学び。
多分、場の中の他のロールとの関係、という理解の仕方は外向タイプの学び方で、時系列の中で自分が移り行くことを理解していくというのは内向タイプの学び方だろう。
そういえば私はグループプロセスでも自分がどう感じているかに焦点を合わせているときが一番気づきが深いような気がする。
他の人がどう感じているかとか意識的に考え始めると調子が狂う。
これは多分『染まる人』で書いたように、私が無意識に相手や場に染められるから、自分の内部だけ見ていれば場にも触れていることになるということなのだろう。
そしてこれはセラピーセッションで「何を感じていますか?」という質問が私には有効でなかった理由でもあるのだろう。
私が内部に感じるのはセラピストやセラピールームに染まった私であって、部屋を出ればそれは消えていくのだから。
一つはロールプレーにおいて誰かが何かの役を演じるという意味でのロール。
ファシリテータが「誰かここで抑圧者のロールを取ってくれませんか?」と聞いたりする。
ロールを取る人は意識的に自分の一次プロセスとは異なる配役になる。
ここで以前のエントリーをチェックしたら、ここで書こうとしていたことと同じことを同じタイトルで一年半前に書いていた(『ロールの二つの意味』)。
ただ、一つ付け加えることがあるとすれば、自分自身の行動を見て、自分があるロールにはまっていたんだなと気づくことの重要さ、だろうか。
ロールというのは意味を持っている。
自分のしたことが良かったとか悪かったとかいう価値判断とは別に、場の中で他のロールとの関係でどんなロールだったのかという理解を持つことが重要だ。
それは『多数の「私」によるタイムシェアリング』で書いたようないろいろな「私」同士が出会える舞台を心の中に作っていく作業であるとも言える。
あるいは「これが私だ」と思って行動したのに、振り返ってみると他人のように見えたりする、という学び。
多分、場の中の他のロールとの関係、という理解の仕方は外向タイプの学び方で、時系列の中で自分が移り行くことを理解していくというのは内向タイプの学び方だろう。
そういえば私はグループプロセスでも自分がどう感じているかに焦点を合わせているときが一番気づきが深いような気がする。
他の人がどう感じているかとか意識的に考え始めると調子が狂う。
これは多分『染まる人』で書いたように、私が無意識に相手や場に染められるから、自分の内部だけ見ていれば場にも触れていることになるということなのだろう。
そしてこれはセラピーセッションで「何を感じていますか?」という質問が私には有効でなかった理由でもあるのだろう。
私が内部に感じるのはセラピストやセラピールームに染まった私であって、部屋を出ればそれは消えていくのだから。
日本人としてのカムアウト 11/16/09
先週末のグループプロセスはコホートシステムに入らなかったディプロマ学生4人が「ノーホート」という形でまとまって企画した練習プロセス。
といってもその内容をここに書くわけではない。
ただ、その中である人がドイツ人としてカムアウトしてきているという印象を持ったことについて書きたい。
その人がドイツ人だということはこの辺の人ならみんな知っていることで、それ自体はカムアウトするようなことではない。
のだけれど、今回のその人(Gさんとしておく)には「わたしはドイツ人だ、文句あるか」とでも言いたそうな勢いが感じられた。
私は2004年のニューポートのワールドワークでドイツ人が自分たちの誇りについて堂々と語ったのに感動したことがあるが、ここポートランドではドイツ人というのは叩かれ役である。
ユダヤ人に対する悪行について陳謝する役以外あまり回ってこない。
ランクの高いディプロメートの大多数がユダヤ人であるという状況もドイツ人にはきつい。
そうした状況でGさんがドイツ人であることを恥じるのではなくて肯定的に見ていこうという姿勢の片鱗を示したことに私は感動したのだった。
そしてそれはもちろん私自身の日本人アイデンティティにもつながる感動だ。
日本人としてカムアウトするというのは具体的にどういうことだろうか。
Gさんの場合と同様、私が日本人であるということはポートランドのプロセスワーク界ではかなり知れていることだろう。
でもたとえば広島や長崎の原爆投下について、本気でアメリカ人に腹を立てるということができない。
真珠湾攻撃をやった罰が当たったんだよとか、あれは戦争だから正当なんだとか言われるとくしゃくしゃとしぼんでしまう。
そして後でとても嫌な後味が残る。
その一方でユダヤ人がホロコーストに激烈に反応したり、アメリカ人が911攻撃で激烈に反応したりするのを見ると、なんで自分はアメリカの大量殺戮行為に対してほぼ平気な顔ができるのかがすごく気になる。
ある意味でそれは大地と同化した意識からくる大きな心の現われともいえる。
でも、すごく気になっている自分もやはりカムアウトする方が、私にとってだけでなく私と会話する西洋人にとっても健全なことだと思う。
今度会話していて原爆のこととかふと浮かんできたら、多少的外れだと思っても何か言ってみよう。たとえ一言でも。
といってもその内容をここに書くわけではない。
ただ、その中である人がドイツ人としてカムアウトしてきているという印象を持ったことについて書きたい。
その人がドイツ人だということはこの辺の人ならみんな知っていることで、それ自体はカムアウトするようなことではない。
のだけれど、今回のその人(Gさんとしておく)には「わたしはドイツ人だ、文句あるか」とでも言いたそうな勢いが感じられた。
私は2004年のニューポートのワールドワークでドイツ人が自分たちの誇りについて堂々と語ったのに感動したことがあるが、ここポートランドではドイツ人というのは叩かれ役である。
ユダヤ人に対する悪行について陳謝する役以外あまり回ってこない。
ランクの高いディプロメートの大多数がユダヤ人であるという状況もドイツ人にはきつい。
そうした状況でGさんがドイツ人であることを恥じるのではなくて肯定的に見ていこうという姿勢の片鱗を示したことに私は感動したのだった。
そしてそれはもちろん私自身の日本人アイデンティティにもつながる感動だ。
日本人としてカムアウトするというのは具体的にどういうことだろうか。
Gさんの場合と同様、私が日本人であるということはポートランドのプロセスワーク界ではかなり知れていることだろう。
でもたとえば広島や長崎の原爆投下について、本気でアメリカ人に腹を立てるということができない。
真珠湾攻撃をやった罰が当たったんだよとか、あれは戦争だから正当なんだとか言われるとくしゃくしゃとしぼんでしまう。
そして後でとても嫌な後味が残る。
その一方でユダヤ人がホロコーストに激烈に反応したり、アメリカ人が911攻撃で激烈に反応したりするのを見ると、なんで自分はアメリカの大量殺戮行為に対してほぼ平気な顔ができるのかがすごく気になる。
ある意味でそれは大地と同化した意識からくる大きな心の現われともいえる。
でも、すごく気になっている自分もやはりカムアウトする方が、私にとってだけでなく私と会話する西洋人にとっても健全なことだと思う。
今度会話していて原爆のこととかふと浮かんできたら、多少的外れだと思っても何か言ってみよう。たとえ一言でも。
グループプロセスにおけるレベルの考慮 11/15/09
ここでいうレベルというのはスキルのレベルという意味ではなく、グループプロセスで起こっているやりとりの範疇といった意味だ。
たとえばAさんが自分の内側で感じていることを話しているのにBさんがイスラエルの政治的状況について話しているとすると、これはかみ合わない。
こういうとき、Aさんは内部レベルにいてBさんはワールドレベルにいますねというふうにファシリテータが指摘すると混乱が減る。
私はこのレベルへの気づきが遅い方だ。
グループプロセスに参加して、グループそのものが終わって反省会みたいになったときにスーパーバイザーがレベルについて言及すると、「あ、いけない、レベルへの注意を怠っていた!」と思うことがしばしばだ。
レベルとして他にどういうのがあるかというと、たとえば関係性のレベルというのがある。
AさんがBさんに「私はあなたにこうしてほしい」とか「あなたのこういうところに凄く腹が立つ」と言い、Bさんが「最近こういうことを感じてるんです」とか言ってると、やはりレベルが合わない。
こういうふうに、レベルを考慮することで参加者間のやりとりの交通整理ができる。
書いてみてわかったけど、レベルという考え方は私には理屈ではわかっても実際上興味を持てないようだ。
なんでそうなのか、ということは考える価値のあることだと今納得した。
たとえばAさんが自分の内側で感じていることを話しているのにBさんがイスラエルの政治的状況について話しているとすると、これはかみ合わない。
こういうとき、Aさんは内部レベルにいてBさんはワールドレベルにいますねというふうにファシリテータが指摘すると混乱が減る。
私はこのレベルへの気づきが遅い方だ。
グループプロセスに参加して、グループそのものが終わって反省会みたいになったときにスーパーバイザーがレベルについて言及すると、「あ、いけない、レベルへの注意を怠っていた!」と思うことがしばしばだ。
レベルとして他にどういうのがあるかというと、たとえば関係性のレベルというのがある。
AさんがBさんに「私はあなたにこうしてほしい」とか「あなたのこういうところに凄く腹が立つ」と言い、Bさんが「最近こういうことを感じてるんです」とか言ってると、やはりレベルが合わない。
こういうふうに、レベルを考慮することで参加者間のやりとりの交通整理ができる。
書いてみてわかったけど、レベルという考え方は私には理屈ではわかっても実際上興味を持てないようだ。
なんでそうなのか、ということは考える価値のあることだと今納得した。
嘆きと喪失 11/14/09
禅センターのディスカッショングループ。
七年以上修行した人というのが参加資格なので、わりとみんな言いたいことを言える。
初心者がいるところではシェアできないような感情が出てくる。
今日のは嘆きと喪失(grief and loss)というテーマだったので、涙ながらのシェアリングもいくつか出てきた。
そういうものを受け止められる環境を作ろうというG先生の熱意が実りつつある。
参加者が解釈や分析や説教に移行しそうになるとG先生が注意を喚起してパーソナルなシェアリングに引き戻す。
回を重ねるうちに我々もそのこつが少しずつつかめてきた。
今日、いろいろな喪失と嘆きの話を聞いていて、ふと思ったことを書き留めておきたい。
私の人生ではそんなに大きな喪失は今までのところなかった。
むしろ主観的には『夢のロールスイッチ』で書いたように、私の人生は一番初めの記憶が喪失への嘆きだった気がする。
以後の人生は死の砂漠のように見えた世界に少しずつ生命を見出してゆくプロセスだった。
中年を過ぎつつある肉体の崩壊は徐々に、そしてときにあっと思うくらいはやく進んでいく。
そこには喪失の感覚が確かにある。
でも、子供の時には話し相手が一人もいなかった私が、今では思ったことを自由に言える相手が増えてきているし、何も言わなくてもただ一緒にいるだけでうれしいつれもいる。
子供のころの底なしのさびしさが、虫とか土地そのものからなぐさめを得るスキルを教えてくれた。
人のいない世界から見つけてきたものが周囲の人々への最良の贈り物になる、そんな気がしてきている。
七年以上修行した人というのが参加資格なので、わりとみんな言いたいことを言える。
初心者がいるところではシェアできないような感情が出てくる。
今日のは嘆きと喪失(grief and loss)というテーマだったので、涙ながらのシェアリングもいくつか出てきた。
そういうものを受け止められる環境を作ろうというG先生の熱意が実りつつある。
参加者が解釈や分析や説教に移行しそうになるとG先生が注意を喚起してパーソナルなシェアリングに引き戻す。
回を重ねるうちに我々もそのこつが少しずつつかめてきた。
今日、いろいろな喪失と嘆きの話を聞いていて、ふと思ったことを書き留めておきたい。
私の人生ではそんなに大きな喪失は今までのところなかった。
むしろ主観的には『夢のロールスイッチ』で書いたように、私の人生は一番初めの記憶が喪失への嘆きだった気がする。
以後の人生は死の砂漠のように見えた世界に少しずつ生命を見出してゆくプロセスだった。
中年を過ぎつつある肉体の崩壊は徐々に、そしてときにあっと思うくらいはやく進んでいく。
そこには喪失の感覚が確かにある。
でも、子供の時には話し相手が一人もいなかった私が、今では思ったことを自由に言える相手が増えてきているし、何も言わなくてもただ一緒にいるだけでうれしいつれもいる。
子供のころの底なしのさびしさが、虫とか土地そのものからなぐさめを得るスキルを教えてくれた。
人のいない世界から見つけてきたものが周囲の人々への最良の贈り物になる、そんな気がしてきている。
お金とプロセスワーク 11/13/09
今回の日本滞在では対談したりファシったりしてある程度お金をもらった。
二年前にも少しもらったけど今回は一桁多い。
それでもお小遣い程度と言えなくもないが、払う方にしてみればちょっと痛い額に近づいている。
それだけの価値があるものを提供しただろうか?
おっと、この方向に思考を進めると動けなくなりそうだ。
多分価値というものが受け取る者に依存するからだろう。
フィードバックを見るということはもちろん考えられる。
でもそれもしっくりこない。
いったいどんな人をサポートしたいのか。
いや、これだとお金というテーマから逃げている。
ああそうか、今気づいたけど、お金をもらえてうれしいな、という気持ちをちゃんと言ってないから話がぐちゃぐちゃするのかも。
そうなんだ、わあいプロセスワークでお金もらったぞ、というところを押さえてないとそもそも話が始まらない。
そういや翻訳を始めたときも「こんなんでお金もらっていいのかな?」と思ったことがあった。
そしてもちろん、お金をもらえたことがすごくうれしかった。
他に収入を得る道もなかったので、余計うれしかった。
そういえば今も翻訳の仕事がとどこおりがちで現金収入が少なくなっているということが「お金をもらえてうれしいな」というストレートな気持ちにつながっているのだろう。
ただお金をもらえてうれしいというだけでなく、自分が好きなことをしてお金をもらえるということが大事。
翻訳のときも最初は私自身翻訳をやりたかった。
言葉に関するスキルを高めたいという欲、というより必要性を感じていたから。
今の方がスキルはもちろん高いだろうが、情熱はあのころにてんでかなわない。
あのころは誰かが翻訳にけちをつけると髪の毛を逆立てて反論した。
今はそんな元気はない、翻訳に関しては。
プロセスワークの方はMACFOCで三年、そして卒業後はこのブログなどで二年磨いてきている。
私のような内向タイプがほんとうに学ぶには一人でじっくり考える時間が必要だ。
この二年間がその時間を与えてくれた。
ようやく、多少のお役には立てるだろうという気持ちが出てきた。
好きなプロセスワークをやってお金を稼ぎ、さらに学ぶ機会を増やすという好循環を作ろう!
二年前にも少しもらったけど今回は一桁多い。
それでもお小遣い程度と言えなくもないが、払う方にしてみればちょっと痛い額に近づいている。
それだけの価値があるものを提供しただろうか?
おっと、この方向に思考を進めると動けなくなりそうだ。
多分価値というものが受け取る者に依存するからだろう。
フィードバックを見るということはもちろん考えられる。
でもそれもしっくりこない。
いったいどんな人をサポートしたいのか。
いや、これだとお金というテーマから逃げている。
ああそうか、今気づいたけど、お金をもらえてうれしいな、という気持ちをちゃんと言ってないから話がぐちゃぐちゃするのかも。
そうなんだ、わあいプロセスワークでお金もらったぞ、というところを押さえてないとそもそも話が始まらない。
そういや翻訳を始めたときも「こんなんでお金もらっていいのかな?」と思ったことがあった。
そしてもちろん、お金をもらえたことがすごくうれしかった。
他に収入を得る道もなかったので、余計うれしかった。
そういえば今も翻訳の仕事がとどこおりがちで現金収入が少なくなっているということが「お金をもらえてうれしいな」というストレートな気持ちにつながっているのだろう。
ただお金をもらえてうれしいというだけでなく、自分が好きなことをしてお金をもらえるということが大事。
翻訳のときも最初は私自身翻訳をやりたかった。
言葉に関するスキルを高めたいという欲、というより必要性を感じていたから。
今の方がスキルはもちろん高いだろうが、情熱はあのころにてんでかなわない。
あのころは誰かが翻訳にけちをつけると髪の毛を逆立てて反論した。
今はそんな元気はない、翻訳に関しては。
プロセスワークの方はMACFOCで三年、そして卒業後はこのブログなどで二年磨いてきている。
私のような内向タイプがほんとうに学ぶには一人でじっくり考える時間が必要だ。
この二年間がその時間を与えてくれた。
ようやく、多少のお役には立てるだろうという気持ちが出てきた。
好きなプロセスワークをやってお金を稼ぎ、さらに学ぶ機会を増やすという好循環を作ろう!



